前回は墨家の基本思想について書いたが、今回は墨家の歴史について。
墨家は思想よりも歴史のほうが重要なのかもしれない。
以下は浅野裕一著『雑学図解 諸子百家』(ナツメ社/2007)を頼りにして書いていく。
- 作者:浅野 裕一
- 出版社/メーカー: ナツメ社
- 発売日: 2007/04/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
創始者、墨子=墨翟
墨子の本名は墨翟(ぼくてき)という。魯の人で、墨子が活動した時期は「前439年を少し遡る頃から、前393年を少し下る頃まで」(浅野氏/p108)。亡くなるのも「前393年を少し下る頃」。
孔子が亡くなったのが前479年、
孔子の後期の弟子で戦国初期の覇王・魏の文侯に支持された子夏の死去は前420年頃、
文侯の在位が前445-396年、
孟子の生きた時代が前372?-289年。
ということで、孔子は戦国魏が覇権を握っていた時代に活動していた。孔子の後期の弟子の子夏の死よりも後に活動を始め、孟子が活動し始めるかどうかの時期に墨子は亡くなった。
墨子の活動
さて、墨子が活動しはじめた時期は戦国魏の派遣の時代だった。子夏の弟子の李克・呉起・西門豹*1が魏・文侯のブレーンになっていた。思想界においては儒家がリードしていた。というか儒家以外の諸子百家はまだ誕生していなかったのかもしれない。
墨子は自己の理念を実現すべく、魯に学団を創設し、ここに墨家が誕生する。墨子は、多数の門人を教育して一人前の墨者に仕立て上げ、諸国を遊説させたり、官僚として諸国に送り込んだりする手段で、自己の思想を世界中に実現しようとしたのである。ところが、せっかくの墨子の計画も、なかなか狙い通りには運ばなかった。
というのは、集まってきた弟子たちの入門同期は、ほとんどの場合、墨子のもとで学問を身につけ、高級官僚として仕官したいとする一点にあって、墨子の思想自体に共鳴したからではなかったためである。つまり、理想実現のために学団を創設した墨子の思想と、利益目当てに入門してきた弟子たちの思惑は、はじめから大きく食い違っていたのである。
出典:浅野氏/p114
- 墨者とは墨家の一員の意味(だと思う)。
墨子と弟子たちの思惑の相違の問題は孔子の学団でも起こっていただろう。
春秋末から封建制が崩れ始め、読み書きのできる者なら仕官できる希望があった時代だった。孔子や墨子の学団の入門者は読み書きできる者の中でも、貴族でもなく、コネもないような最下層の人々だったろう。
現代日本でも同じようなことが起こる。有名人が政治団体や政治塾を立ち上げるとどこからともなく、入会者が多く現れるが、彼らがその有名人の思惑に賛同して集まっているかと言えば、そんな人は一握りしかいないだろう。
さて、こんな入門者たちを強化するために墨子はどのような手段をとったのか?それが鬼神信仰を吹き込むことであった。
墨子は、鬼神は明知であって、人間のあらゆる行動を監視しており、善行には福をもたらし、悪行には禍いを下して、人間の倫理的行動を監督すると、弟子たちに説いた。つまり墨子は、鬼神の権威を借りた外部からの規制を、教化の有力な手段に据えたのである。
出典:浅野氏/p114
上の引用の後、浅野氏は鬼神が門人に賞罰を与えることを疑ったと同時に墨子への不信が生まれるリスクを書いているが、墨子が亡くなった後も鬼神信仰は墨家の中で充分に機能した。
二代目・禽滑釐と「質的変化」
上のように「初代墨家」の墨子の時代の弟子たちはその思想よりも仕官に興味をもつものばかりだった。これが三代目の孟勝になるとトップの強力な統率の下に思想を実践する集団になっていた(三代目については後述)。
三代目・孟勝の代の強力な統率については『呂氏春秋』上徳篇に言及されているが、二代目の統率力に関する言及はどの書も触れていないらしい。
浅野氏はこの「質的変化」は二代目・禽滑釐(きんかつり)の代で起こったと考えて、禽滑釐という人物にクローズアップする。
[禽滑釐]は墨子が特に信頼する高弟で、墨子の死後、二代目の鉅子[墨家のトップ]を継いだ人物である。しかも彼は、『墨子』兵技巧諸篇で、墨子から守城術を伝授されており、墨子に代わって防御部隊を指揮していることから、とりわけ防御部隊の育成による非攻活動の実践に情熱を注ぎ込んだ人物と目される。
このように禽滑釐が、防御戦闘の中心人物としての立場から鉅子の位を継いだことは、必然的に彼の団員に対する統率力を強化する奉公に機能したであろう。戦時に際しては、平時よりも鉅子の権威が一段と強化され、団員はその命令を軍律として受けとめ、それに絶対的に服従することが要求され、しかもその権威は、逆に平時の学団内にも波及するからである。[中略]
これによって墨家は、墨子当時の功利的風潮を払拭して、真に思想集団と呼ぶにふさわしい成長を遂げることが可能となったのである。
出典:浅野氏/p130
一般的な話として創始者亡き後の集団をまとめるには、残されたトップが創始者を神格化するように宣伝して、トップは神格化が確立された創始者の衣を借りて強力な統率を実現する、というものがある。
三代目・孟勝
孟勝については上で触れた通り『呂氏春秋』上徳篇に言及されている(孟勝のそれ以外の言及があるのかどうかは分からない)。ここに書かれているエピソードを書いていこう。
孟勝は『呉子』で有名な呉起(前440-381年)と同時代の人。呉起は楚の悼王に迎えられて宰相を務めていたが、悼王が亡くなった途端に呉起が抑圧していた貴族たちに報復を受け殺害される。
悼王を継いだ粛王は呉起暗殺に加担した貴族全員を処罰する方針を取り、その貴族の一人の陽城君は出奔して自分の城邑に戻った。
楚軍に攻められることとなった城邑防衛のために陽城君は かねてから親交のある孟勝に防衛を委託するように依頼した。
しかし度重なる猛攻に防衛が絶望的になると、孟勝は契約不履行の責任を取るために集団自決をしようとする。これに対して弟子の一人・徐弱が「鉅子(墨家のトップ)のあなたが死んでしまえば墨家の系統は途絶えてしまう」と反対した。孟勝は以下のように返答する。「ここで責任を取らずに死を逃れたら、それこそ墨家は信用を失い滅んでしまうだろう。私が死んだ後は宋の田襄子が鉅子を継いでくれるだろう」。
孟勝は田襄子に鉅子の位を譲る使者を出した後、指揮下の墨者180人全員と共に自決した。田襄子に譲位を伝達した使者2人は田襄子の制止を振り切って城邑に戻り、皆の後を追って自決した。
以上のように孟勝の下の墨者たちは狂信的と言えるほどに思想を実践して殉じていった。
戦国中期~末期
四代目の田襄子のエピソードについては分からないが、その後(その後も?)墨家は隆盛し続け、戦国期の二大思想の一つとなった(もう一つは儒家)。
孟子(前372?-289年)の時代、戦国中期には「楊朱墨翟の言説が天下に満ち溢れている」(『孟子』滕文公下)という状態だった(ちなみに孟子が活躍する前は儒家は低迷していたらしい)。
ただ、拡大する組織にありがちの分裂が戦国中期には始まっていたらしい。荘子(前369年頃-286年頃)の『荘子』天下篇には「墨家が大きく2つのグループに分裂し、互いに相手を「別墨」と非難して……今に至るまで決着がつかない」(浅野氏/p132)と書いている。
また、韓非(韓非子)の時代、戦国末期には「墨は離れて三と為る」(『韓非子』顕学篇)とある。
分裂の内情はわからないままだが、それでも墨家は戦国末期に至るまで「儒家と並んで「天下の顕学」たる揺るぎない地位を保ち、巨大な勢力を誇り続けたのである」(浅野氏/p132)。
墨家消滅
戦国末期まで隆盛を極めた墨家だが、秦帝国成立以後、忽然と姿を消した。
墨家消滅の経緯の詳細はわからないままだが、浅野氏は推測して3つの事柄に言及している。(p134)
これに付け加えるとすれば、墨家の主張であった「封建国家体制の維持」が意味をなさなくなったため、墨家は解散するよりなかったか、危険な組織・非合法組織として徹底的に潰されたかしたのではないか。
いずれにせよ、組織として実践することを旨(むね)としてきた組織は、その組織の壊滅とともに思想も忘れ去られてしまった。
墨子の思想が蘇った(?)のは なんと清末になってからだという。
ひるがえって、墨子その人が賤民の出身だったという説がある。きっと工人の技術をもっていた。あるいは数学の技法に長けていたかもしれない。墨子はやっと清の時代になって評価されることになるのだが、そのとき清は西洋列強の餌食になろうとしていた矢先であった。慌てた中国の知識人たちは、ついに墨子を探しあてたのである。そして、「西欧の学は古来、わが墨子に備われり」と気がついた。けれども、時すでに遅かった。あの中国にして、墨子を思い出すのが遅すぎた。
墨守 [名](スル)《中国で、思想家の墨子が、宋の城を楚(そ)の攻撃から九度にわたって守ったという「墨子」公輸の故事から》自己の習慣や主張などを、かたく守って変えないこと。「旧説を墨守する」