劉邦が項羽に勝った理由として「項羽から劉邦に人材が流れた」ということがある。人材が流れた結果が有名な四面楚歌そして死に繋がる。
人柄の差が二人の明暗を分けたということだが、ここでは劉邦の人柄について書いていく。
前に進む前に書いておくが、前回までに書いたように、劉邦の経歴は
不良少年→ヤクザの若衆→公務員(亭長)→盗賊の親玉
である。
この経歴は彼の人柄にも色濃く現れている。
もう一つ。
『史記』を書いたのは漢帝国の官吏である司馬遷だから高祖を褒めそやすのは当たり前だと思うのは当然だ。
だがそうであっても項羽陣営で裏切り者が続出する一方で、劉邦陣営の忠臣の多さが目立つのを見ると上記のような劉邦の人柄に注目せざるを得ない *1。
それでは人柄について書いていこう。
気前が良い
まずは、項羽を倒し中華統一した漢5年(前202年)の劉邦と王陵の会話(『史記』高祖本紀)。
高祖は雒陽(らくよう)の南宮で酒宴を開き、「列侯諸侯らには、わしがどうして天下を得たか、また項氏がどうして天下を失ったか、朕に隠すところなく実情を述べてみよ」と言った。
王陵が、「陛下は人を見下げてあなどられ、項羽は仁慈で人を愛するのですが、ただ陛下は人に城を略させた時、降した者にそこをあたえて天下と利を分けられますのに、項羽は賢者をそねみ能者を嫉(にく)み、功労ある者を殺し賢者を疑い、戦いに勝っても人に賞賜せず、土地を得ても人に分与しないのです。これが天下を失った理由です」とこたえた。
高祖は、「公は一を知って二を知らない。はかりごとを帷幕(とばり)の中にめぐらし、勝利を千里の外に決することでは、わしは子房(張良)に及ばない。国家を鎮め人民を撫し、糧食を士卒に給して糧道を絶たないことでは、わしは蕭何に及ばない。百万の軍をつらね、戦えばかならず勝ち、攻めればかならず取ることでは、わしは韓信に及ばない。この三人はみな人傑であるのに、わしはよくこれを使うことができる。これがわしの天下を取ったいわれである。項羽はたった一人の范増さえ用いることができなかった。これがわしに虜にされたいわれである」と言った。
この文章は非常に有名な場面で、王陵が、そして劉邦自身が劉邦の人物評を述べている。漢の三傑を動かせる能こそが天下を取れた理由だと劉邦自身は言っている。これに対して王陵は なぜ劉邦が有能な臣下をコントロール出来たのかを述べている。
引用の文章は劉邦の言葉のほうに重きを置かれるのだが、この記事で重要なのは王陵の言葉だ。
次に陳平の言葉を書く(『史記』陳丞相世家)。
「大王は傲慢無礼であらせられますから、廉潔で気節のある士は大王には寄りつきません。ただ大王は気前がよく、爵位と領地を惜しげもなく部下に与えられますから、頑鈍で利益を嗜(むさぼ)り、恥を知らないものたちは、大王のところに集まって参るのです」
出典:佐竹氏/p195
王陵と同じことを言っている。つまり臣下に利を「惜しげもなく部下に与え」ることだ。
『史記』高祖本紀において、劉邦の人柄について以下のように書いている。
仁而愛人、喜施、意豁如也、常有大度……(仁にして人を愛し、施すことを喜び、物事にこだわらず、いつもゆったりしている)
ここでも「施すことを喜び」とあり、分け前を気前よく分配するという理想的な親分らしい振る舞いが劉邦の特徴のひとつとなる。 (ただし中華統一後に、韓信や黥布を代表する功臣は厄介者とされ殺され領地を奪われた) 。
気軽に話しかけられる雰囲気を持つ
また、王陵や陳平のように劉邦にとって耳の痛いことでも直に言ってしまえる雰囲気を持っている。『史記』には、臣下が劉邦に報酬に対する不平を直談判する場面がいくつも登場する。この時 多くの臣下の主張が聞き入れられた。聞く耳も持っている証拠となる。
高祖は(中略)性格が闊達で明朗、謀(はかりごと)をよくし、他人の意見をよく聞き入れた。門番の兵卒のような下っ端の部下たちにも、昔から馴染みのように親しく接した。
- (中略)の部分は「不修学問(学問を修めてはいないが……)」。貴族が身に着けておくべき「礼」についても含まれているかも知れない。
- ここにある「謀(はかりごと)」は、謀略を仕掛けるという意味ではなくて、相談をするという意味、だと思う。
リーダーの中には、自分が有能で周りには優秀な"イエスマン"しかいないという人もいる。劉邦はその逆で、自分の限界の浅さを知り、よく相談し、下っ端の意見にさえも耳を傾けた。そして下っ端の直言を許す度量があった。
「無礼の礼」
佐竹氏は以下のように言う。
任侠の精神の基本的要素は礼、義、利の三要素である。
……劉邦と項羽は「仁にして人を愛す」という徳目を共有していた。ただし項羽は礼と義に傾き、劉邦は義と利に傾いた。[中略]
礼、義、利の組み合わせが任侠集団を、さらには任侠集団を越えたより大きな集団を動かす基本的な要素となっているときに、その一要素を欠いた劉邦がどうして人を動かせることができたのであろうか。
劉邦は戦場で窮地に立たされると、しばしば仲間を見捨てて一人で逃げた。しかし、部下はかれを見限ったり、離反することなく、わが身と引き替えにかれを救おうとした。危機が去ってから現場に立ち戻ってきても、だれもかれを責めず、かれの統率力に陰りが生じることはなかったのである。
部下に義と利を与えることのみによって、それほどの吸引力が働くであろうか。
出典:佐竹氏/p199
劉邦は貴族でもないし学問を修めてもいないので、一般的な礼(貴族の中で発達した礼)を身に着けられる環境になかった。前述の王陵や陳平は、劉邦と項羽を比較して、劉邦の一般的な礼の無さを指摘した。
しかし佐竹氏は、その一般的な礼の代わりに、劉邦は「無礼の礼」を身に着けていたという。
端的にいえば、まだ片々たる小集団を率いていたころから、かれなりの礼の秩序が貫徹していたのである。それがいかに傲慢無礼に見えたとしても、周囲に集まった者たちは、嬉々としてこの「無礼の礼」を受け入れたのである。
出典:佐竹氏/p200
劉邦は元ヤクザで盗賊の親分だったので、ヤクザ映画などに出てくる親分を想像すれば「無礼の礼」が何となく想像できるかも知れない。
ちなみに上の引用にある「義」ついて佐竹氏は「義とは正しく筋道が通っていることである」とし、劉邦の仁義の内実は、「気配りと集団への献身」であると書いている(佐竹氏/p75)。私個人としては、任侠の精神の要素としての「義」なのだから、もっと庶民的に「恩に報いる、人間関係を大切にする」程度の意味でいいのではないかと思う。
劉邦の人心掌握術
長くなるが、最初に黥布(英布)と劉邦が初めて顔合わせをするときのエピソードを紹介する。
《『史記 黥布列伝 第三十一』の現代語訳:2》を参考にした。
黥布は項羽の父の項梁に決起の時から従った猛将だった。しかし秦帝国を滅ぼして項羽の天下になった頃から黥布と項羽の仲が悪くなった。
そして楚漢戦争が始まった後、劉邦陣営は黥布を寝返らせようと説客の随何を派遣し、黥布は随何の説得に応じた。
しかしそれでも迷いを捨てきれない黥布は項羽の使者と面会する。随何はこの場にズカズカと入り込み「九江王(黥布)は既に漢に帰順された。楚がどうして出兵させることができようか。」と啖呵を切った。
愕然とした黥布は観念して決心し、楚の使者を殺して項羽に反旗を翻した。しかし迎え撃つ項羽軍に大敗し、随何と一緒に劉邦の元へ向かった。
以上が前段で、ここからが劉邦の人心掌握術の話になる。
黥布は命からがらに劉邦陣営に着いた。そして、黥布が劉邦に帰順したことを示すための初めての顔合わせとなる面会の時が来る。
黥布が面会の場に入ると、劉邦は床几(しょうぎ)に腰掛けて下女に足を洗わせていた。黥布は劉邦のあまりにも無礼な態度に腹を立てたがどうすることもできない。面会が終わった後に自殺しようと決心した。
しかし、退出して宿舎に入ると、帷帳(とばり)・衣服・調度類も飲食物も従者も、漢王の陣屋と同じようなものだったので、布はまた望外の待遇に大喜びした。
佐竹氏によれば、劉邦は酈食其(れきいき)と面会したときも下女に足を洗わせながらするという無礼を行っていた。
これから見ると、かれは相手にまず相手にまず屈辱を与えることを一種のタクティスにしていたように思われる。[中略]
かれは相手に己の弱みを思い知らせておいたうえで、あらためて最高の待遇を与えることにより、相手を自分の完全な支配下に組み込むのである。
出典:佐竹氏/p74
上のようなことをやる人はそうそういないとは思うが、初対面の人に高圧的、挑発的、攻撃的な態度をとって主導権を握ろうとする人、つまり初対面で上下関係をはっきりしようとする人は結構いるだろう。
こういうタイプの中には自分の身内(仲間、味方)とそうでない人を峻別し、身内をとても大切にしてそうでない人はぞんざいな扱いをする人がいる。劉邦もそういう人だったのかも知れない。