歴史の世界

楚漢戦争㉒ 逆転劇

前回の滎陽城陥落の後からの劉邦の逆転劇を書いていく。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p164

前回、滎陽城から逃走し、成皋で戦って再び逃走したところまで書いた(以下の場所は上図を参照)。劉邦黄河を北に渡り、韓信の軍が駐屯する修武にたどり着く。

劉邦は修武に着くとすぐさま韓信の軍隊の指揮権を取り上げ自軍に編入し、韓信を趙の相国として徴兵されてない民を新たに徴兵させ、その軍で斉を討つように命令した。この時、劉邦は将軍たちを召集して配置換えを行ったという。趙の地は張耳が守ることになった。これは漢3年(前204年)の7月のこと(藤田氏/p173)。

劉邦軍の反撃

韓信軍の精鋭を得た劉邦は8月、盧綰と劉賈に2万の兵を与えて白馬津 *1 を渡らせ、彭越とともに楚軍の兵站ネットワークの破壊攻撃を繰り返した。

項羽は大司馬・曹咎(そうきゅう)に成皋を守備させて彭越討伐に出た。しかし、漢4年(前203年)10月 *2 、曹咎は城を出て交戦し敗北した。曹咎は自害し、成皋は劉邦の手に落ちた。

韓信の斉掌握

8、9月の収穫期が終わるのを待って10月に、韓信は十分な態勢を整えてから斉を侵攻する。しかしこの前に劉邦は斉と和議を結ぶために儒者の酈食其を送っている。和議は成功して斉の警戒が緩んだところに韓信は侵攻し、斉はたやすく陥落した。酈食其は斉王田広に煮殺された。

韓信、楚の大軍を破る

斉王は楚に救援を求め、11月、楚はこれに応じて司馬龍且と周蘭を派兵した。号して20万。実数はこれより少なかったとしてもこの軍勢は当時の楚軍にとって投入できる最大限の軍勢だった *3韓信はこれを撃破した。

劉邦、圧倒的優位に立つ

滎陽陥落して項羽が優勢が確固たるものになったと思いきや、韓信を中心とする活躍により劉邦が優位に立つ。そして項羽陣営は大軍勢を失い、致命的なダメージを受けてしまった。

後世から見ると、韓信と司馬龍且・周蘭の戦いが楚漢戦争の勝敗を決したということができる。

韓信以外の活躍

上記のように韓信の勝利によって劉邦が決定的に優位に立つことができたが、他にも活躍した人物がいる。何人か挙げておこう。

陳平

滎陽の陥落の前に陳平の工作によって項羽と参謀の范増を離間させたことは有名だ(范増はこの後すぐに死んだ)。劉邦はこの後も陳平に大金を与えて内部分裂工作をやらせた。この結果、項梁の挙兵から参加していた鍾離眜が項羽に疎んじられ、後のことだが、大司馬(総司令官)の周殷は先に寝返った黥布を頼って劉邦陣営についた。

佐竹氏 *4 によれば、陳平の工作のターゲットは主として項氏一族であった可能性が高いとのこと。項伯・項襄・項它らが劉邦によって諸侯に封ぜられているのは陳平の工作の結果だということだ。

彭越

彭越は彭城の戦いの後に項羽軍に敗れて黄河の北に逃げていたが、滎陽の陥落の前から南下して遊撃的に楚の領内を襲って兵站を破壊し食糧を焼き払った。項羽ら主力軍には勝てなかったがそれ以外の軍勢に勝つほどの勢力を持ち、敵の主力を避けて兵站破壊活動を繰り返した。

蕭何

項羽軍の兵站ネットワークが破壊されたのと対象的に、劉邦軍は蕭何のおかげで兵站を築き保つことができた。楚漢戦争後、蕭何は戦功第一とされた。兵站の他に、蕭何は丞相として関中の内政を全うした。



*1:上図の朝歌の南、黄河の反対側

*2:「漢」暦は10月を年始とする

*3:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/p464

*4:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p299