歴史の世界

楚漢戦争⑨ 劉邦を取り巻く環境

前回に続いて劉邦について書いていく。

今回は劉邦を取り巻く環境について。

今回もテキストは以下の本を使う。

劉邦

劉邦

劉邦の故郷とその周辺の地図

劉邦は泗水郡沛県に属する豊邑の人。

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出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/巻頭

↑の地図で、劉邦の故郷豊邑を囲む三日月形の太線について佐竹氏は以下のように説明する。

いま、泗水を弦とし、単父、𥓘県の西側あたりを通る線を弧とする三日月形を描くと、楚漢戦争の英雄豪傑たちは、ほぼ全員この地域から起こったといってよい。本書では、この地帯を「泗水系三日月形水郷沼沢地帯」と名づけることにする。このころ、淮水流域の低湿地帯やさらに南方の地域の経済開発が進行しており、大梁の中原の住民がこのフロンティアに移住していた。そして、このフロンティアの縁辺に広がる水郷地帯が当時の群雄(アウトロー)のいわば根拠地となっていたのである。

なお以上のような水郷の出身者とは別に、外交や謀略に活躍した陳平と酈食其(れきいき)等の、劉邦集団としてはやや特異な人材は、いずれも先進的都市文化の地である魏の、そのまた中心地の陳留郡の出身である。

出典:佐竹氏/p52

沛県は戦国末は楚が領有していたが、春秋時代は宋の領内であった。当時の中原(文明圏?)の縁辺にあった(楚は春秋時代の中期までは中原の人々から「蛮族」扱いさていた)。沛県より南に行くと元々の楚の地域になるのだが、南に行くにつれ人口が減り、邑が点々としてあるような状態となる。

「フロンティア」に流入する人々とアウトロー

上に書いてあるようなフロンティアに流入する人々を「さらなる成功を目指す進取に富む人々」とイメージする人がいるかもしれないが、こういうフロンティアに流れ込んでくる人たちは大抵は故郷を追い出された人たちだ。たとえば秦に破壊された旧魏都・大梁の民が河川を下って豊邑や沛県やその近辺の沼沢に流れこんだ。あるいは秦の建築現場や辺境警備などの労役への旅路の途中で逃げ出した人々も逃げ込んでくる。あるいは故郷にいられなるような事件を起こした人々も来る *1

流入した人々は、邑に迎え入れられて職につけた人々はいいが、あぶれた人々はアウトローになるしかない。そしてこの地域に広がる沼沢地はアウトローの住処となる。

アウトローの稼業がどのようなものだったかは前回の記事の最後に書いたが、もう一つ例を書き留めておこう。

劉邦が亭長の職務を放棄して身を隠す時期があったが、その逃亡先が芒・𥓘の沼沢地だった。

この芒、𥓘の沼沢地は、魏、楚、呉、越との交通の要衝に位置していること、地理的に大きな広がりをもち、水路が四通八達し、沼沢地のところどころに丘陵があることによって、群盗の根拠地として理想的な条件をもっていた。[中略]

さらに『水滸伝』にも芒、𥓘の沼沢地のイメージが出てくるし、事実、明代までは芒、𥓘の沼沢地を舞台とする群盗の活躍が史料に記されているのである。

出典:佐竹氏/p203(太字は傍点の代用)

劉邦はこの地で群盗の親玉になった。

反秦勢力の温床となった沼沢地

史記項羽本紀で范増が『楚雖三戸,亡秦必楚』(たとえ楚が三戸になろうとも、秦を滅ぼすのは必ず楚である)という言葉を引いているが、楚人だけでなく、各地から流入してきた秦に恨みを持つ人々が楚の地に集合して反秦勢力の核となった、と言うことができる。沼沢地は反秦勢力の温床の地であったわけだ。

人間関係

佐竹氏は、人間関係、現代中国語では「人際関係(レヌヂーグワヌシ)」の重要性について述べている。ここでは人脈または人脈づくりの話としてこの言葉を使っている。

中国の伝統的な見方では、天の時、地の利、人の和という三要素が歴史の動きを決定する。人際関係は人の和のなかの一要素であって、天の時、地の利という二つの要素と共鳴することによってこそ、大きな力を発揮するのである。

劉邦にとって天の時とは、秦の天下統一とその後の急速な瓦解であった。地の利とは、大梁と豊沛のあいだに成立する地域的社会関係であった。大梁は魏の商工業の中心地であり、豊沛の低湿地帯は魏の民衆にとってのフロンティアであった。より具体的にいえば、歴史的な経過によって旧六国の中でも最も反秦的であった楚国の辺縁において、大梁を頂点とし豊沛を底辺とする任侠的な人際関係の網の目の形成という事態であった。

出典:佐竹氏/p96

人間関係の第一歩は父の太公や王陵・雍歯のヤクザの世界だった。その次からの段階は別の記事で書くが、亭長という公職時代にさらに人脈を広げ、群盗時代には沼沢地に落ちのびて来た流民たちと繋がることになる。

劉邦は以上のようなめぐり合わせの中で人脈を作り上げたのだが、当の劉邦がこのようなめぐり合わせを活かせるような人物でなかったら、反乱集団のリーダーにすらなれなかっただろう。

次回は劉邦の人柄について書いていく。



*1:余談だが米国建国前に北アメリカに流入したヨーロッパ人も故郷から落ち延びてきた人のほうが断然多い。