歴史の世界

楚漢戦争㉘ まとめ その4/止

第六幕:雌雄決す

広武山での2つの出来事

広武山で項羽と劉邦が呼びかけあう。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p187

項羽は一騎打ちを要求したり、人質の父・嫁を殺すと脅したりするが劉邦は応じない。劣勢と優勢を自認している両者の言葉と応対だ。

その後、再び広武山で二人が顔を合わせたのは停戦の取り決めの場であった。劉邦は人質返還の目的で停戦を幾度か持ちかけていた。断り続けていた項羽は漢4年(前203年)8月についに協定に応じた。兵站をズタズタに引き裂かれていたこともあり時間が欲しかった。

停戦協定が結ばれて人質が返されると、劉邦はすぐさま協定を破って帰還する項羽を追いかけて攻撃した。

項羽はこれを返り討ちにするのだが、項羽と劉邦が戦闘をしている間に、韓信が配下の灌嬰に彭城に派遣しその周辺を攻め落とさせた。帰る場所さえ失った項羽垓下の戦いで敗死した(漢五年(前202年)1月)。垓下の戦いは『史記』の名シーンの一つだが、ただ単純に追撃を振り切ることができなかっただけだった。

項羽が敗死したことにより、劉邦の天下が決定し、漢帝国の時代が始まる。

功臣韓信・彭越ら「外様」の運命

垓下の戦いの時、韓信は30万の兵を持っていたが、劉邦終戦直後に韓信の軍権を奪った。劉邦は以前から韓信に対して全面的に信頼しているわけではなかった。韓信は同郷ではないということもあるが、彼の能力を恐れていたと思われる。

史記』において韓信の働きは詳細に描かれていた。有名な背水の陣はその一つに過ぎない。司馬遷韓信に同情し、謙譲を示し功績を誇らなければ天寿を全うし一族も長く存続できただろうと書いている。しかし韓信の功績はこれを許されないほど大きなものだった。彼は他の「外様」の王と同じく粛清された。

彭越も同じ道を辿る。彼も楚において遊撃戦を展開し、楚軍の兵站ネットワークを破壊するという功績を挙げている。彭越も王となったがその後、粛清されている。

その他の外様の王は帝国建国の後、順次粛清され、劉一族が空いたポストに座ることになる *1

なお、張良・陳平も外様だったが、張良は建国後に早々と要職を去り、陳平は絶えず策略を巡らせて難を逃れた。

結び:項羽劉邦になぜ負けたか

項羽劉邦に負けた理由は、簡単に言えば、政治行政の経験が無かったことだろう。

項羽は叔父の項梁が呉において決起した時に副将だったが、この時まだ20代前半だった。項梁が戦死した時、楚の為政者たちは「項羽はまだ若く経験がない」ということで項梁の跡目を継ぐことを遮られたのも当然だろう。

項羽は鉅鹿の戦いにおいて劇的な大逆転により瞬間的に天下を奪ったが、生粋の軍人である項羽は政治的采配を振るうことができず、劉邦がやったような人材の活用をすることができなかった。

劉邦は自分自身と項羽を比較して、「自分は韓信・蕭何・張良を使う事ができたが、項羽は范増すらろくに使うことができなかった」と評したのは、以上のことを端的に表した言葉だ。

劉邦も大して政治行政の経験があるわけではなかったが、運命共同体であった蕭何がその不足分を補った。そして兄貴肌な性格をもって同郷の者だけではなく外様の人々も使いこなすことができた。私個人としては、劉邦の最大の長所はこの他人を惹きつける魅力にあると思うのだが、これがどういうものなのか具体的なことは全くわからない。