前回からの続き。
項羽の咸陽入場
鴻門の会により劉邦が全面降伏あるいは全面服従をした後、項羽と諸将は咸陽に入った。
『史記』において、劉邦が寛容な態度を示したのと対象的に項羽は残虐行為を繰り返したことになっている。これに対して落合淳思氏は以下のように書いている。
『史記』では、劉邦の軍は咸陽入場後も略奪をせず、秦の財物の倉庫を封印したが(高祖本紀)、一方、項羽は咸陽に入って秦の財宝や婦女を奪い、咸陽の宮殿に放火して三ヶ月間燃えつづけた(項羽本紀)とする。
しかし、……『史記』は戦国時代については秦に由来する記録を使っているのであるから少なくとも書庫は燃えていなかったことになる。また、山火事でもないので、三ヶ月間燃えつづけたというのも考えにくい(ちなみに、日本史上最大の火事と言われる江戸時代の明暦の大火でも、二日間で鎮火している)。これも、劉邦の業績を高め、項羽を貶めるために誇張された話であろう。
なお、『漢書』蕭何曹参伝では、劉邦の軍が咸陽に入場した際、諸将が争って秦の宝物を奪ったので、劉邦の参謀の蕭何が先んじて秦の図書を持ち帰ったことになっている。燃えたはずの秦の資料が残っていることとの辻褄をあわせようとして作られた話のなのだろうが、しかし今度は、劉邦の軍が略奪しなかったという部分と矛盾してしまっている。
出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p160-161
歴史の中では洋の東西を問わず勝者の略奪行為は「権利」だった。さらに言えば、やくざ者あがりの劉邦とその手下が略奪をしないとは考えがたい。
おそらくは、全面降伏した劉邦は項羽が来る前に略奪を済ませていたが、その略奪品は項羽によって没収されただろう。略奪品没収でそれまでの越権行為が帳消しになるのなら安いものだ。
十八王の分封
さて、秦帝国を滅ぼしたは良いが、その後の体制はどうなったのか?
漢元年(前206年)の1月 *1 、旧反秦軍は今後のことを項羽に一任した。項羽は形式上は楚国の臣であるのだが、項羽はこの枠組を無視して論功行賞である分封を行った。漢元年(前206年)の1月。
まずは楚国だが、項羽以外に3人の将を王に立て、懐王は義帝すなわち皇帝に祭り上げて、郴県という僻地に移した。もはや「押し込めた」と言ったほうがいい。
秦地は劉邦と降将の三人とに分け与えた。元の趙王・燕王・斉王の領地は削られて反秦戦争で活躍した将に分け与えられた。
弱かった項羽政権
さて、項羽政権が発足するのだがどのような体制だったのか?
項羽は、それまで王として擁立していた楚の王族の心を皇帝(義帝)とし、自分は「西楚覇王」となり、各地に十八人の王を封建する分権政治を採用した。
この場合の「覇王」は「覇者」と同じように「諸王の長」を意味する。春秋時代の覇者体制は周王の権威を利用した支配体制であったが、項羽も義帝の権威を利用して支配体制を敷こうとしたのである。実際のところ、項羽の権力はあまり大きなものではなく、九郡の王になったにすぎない。[中略]
のちに項羽政権が失敗したことについて、司馬遷は「力で征服して天下を経営しようとした(欲以力征経営天下)」ことが原因であると評したが、そもそも項羽政権ははじめから大きな力を持っていなかったのである。
出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p164
項羽政権は1月に発足したが、5月に早くも斉の田栄による反乱が起こったことをきっかけにこの政権は崩壊への道を辿(たど)ることになる。
この混乱の中で項羽は義帝を殺害している。その理由として落合氏は「義帝を排除して権威と権力を項羽に一本化する方が得策と考えたため」と推測している(p166)。
別の理由として考えられるのは、義帝は権力欲がある人物だったので、項羽を裏切って他の勢力と結ぶ可能性を考慮して予防的に殺害した、かもしれない。
いずれにしろ、項羽は皇帝になったはずなのだが、このへんはよくわからない。
項羽は戦国楚の政治システムを継承したのだが *2 、このシステムが十分に機能する前に項羽政権は滅んでしまった。