歴史の世界

楚漢戦争⑱ 項羽政権の瓦解 後編

旧秦地域

まず、劉邦巴蜀と漢中を、秦の降将3将にそれぞれ関中を3分割して分封された。しかし、8月になると、劉邦は関中を征服し、旧秦地域全土をほとんど手中に収める。

項羽は激怒するのだが、斉がすでに項羽に対して戦争をしかけているので、劉邦の征伐のために割く余裕はなかった。

漢2年に入ると、抵抗していた降将3将のうち塞王司馬欣・翟王董翳が降伏する(雍王章邯は5月に韓信に滅ぼされる)。河南王申陽(河南は魏の西部)を降伏させる。

韓王鄭昌は降伏しなかったので劉邦は韓大尉信(後の韓王信)を派遣し攻め滅ぼさせた。そして信をそのまま韓王にした(11月)。

劉邦の動向の詳細については別の記事で書く)

韓・魏

上述の柴田氏によれば、分封直後の項羽の関心は三晋南部すなわち韓・魏に集中していたとのこと。

韓には河南王と韓王が置かれた。

従来の韓王成をそのまま韓王にし、「張耳の嬖臣」申陽を河南王とした。しかし項羽は漢元年四月の諸侯就国時にも韓王成のみは就国させず、彭城まで同行させた上で侯におとし、最終的には殺害するに至った 。韓王成の殺害をきっかけに、張良は漢に身を寄せた。『史記』は、項羽が韓王成殺害後の漢元年八月に鄭昌を韓王に立てたのは 、漢の東方進出を警戒して旧韓地域を自らに近い勢力で固めることを目論んだものと評している 。

出典:柴田昇/楚漢戦争の展開過程とその帰結(上) - 愛知江南短期大学PDF

冒頭の地図では旧魏地域は西魏と殷とに分割され西魏王は魏豹、殷王は司馬卬となっている。

旧魏も西魏と殷の二国に分割された。魏豹は陳勝政権期に魏王となった魏咎の弟で、項羽に 従って入関した武将の一人、司馬卬は趙の武将の末裔で張耳らの趙国の将として活躍していた。

しかし、柴田氏によれば、旧魏領域のうち梁とその周辺地域は項羽の直轄領とされたため、西魏・殷は旧魏領域全体からすればごく限られた地域に過ぎなかった。

陳丞相世家によれば、漢の三秦平定と前後する時期に殷王司馬卬は楚に叛いている。この動きが漢と呼応したものかどうかははっきりしない。殷王司馬卬は項羽に派遣された陳平によって帰順させられているが、この殷王を漢は漢二年三月に撃ち、翌月には河内郡を置いた 。この時陳平は項羽の怒りを恐れて楚軍から逃れ漢に降ったという 。陳平は、自らが帰順させた殷が容易に漢に降ったことに対する項羽による責任追及を恐れたものと思われる。さらに同じく漢二年三月には魏王豹も漢に降っている 。

出典:柴田氏

楚地域

楚では項羽の他に3人の王が封建された。3人とも項梁が兵を上げてからの将だ。

  • 黥布:九江王 +呉芮:衡山王 +共敖:臨江王

このうち黥布(英布)のことは『史記』黥布列伝があるので詳しく分かっている。黥布は他の2王と共に、項羽に義帝を殺害するように命令されて実行したとされている。ただし斉の反乱や彭城の戦いで項羽の救援要請に対して病と称してみずから出馬せず、派兵にとどめている *1 。そして楚漢戦争の間に劉邦へ寝返っている。

呉芮(ごぜい)については楚漢戦争への参戦の記録が無いらしい。「呉芮 - Wikipedia」によれば、「時期は不明だが呉芮は項羽によって衡山王を剥奪され、番君に降格された。その後、離反して劉邦に与した」。前漢成立後、呉芮は長沙王に封建されている。

共敖についても呉芮と同様に記録が無い。「共敖 - Wikipedia」によれば、共敖は漢3年(前204年)に死亡し、子の共尉が王を継ぎ、共尉は高祖5年(紀元前202年)に漢王劉邦項羽を破った際に劉邦に降伏しなかったため、劉邦は盧綰、劉賈を派遣して共尉を撃ち、捕虜とした。 これにより、共敖は項羽陣営に属したと考えられる場合が多いが 、決め手はない。柴田氏は、共敖は楚漢戦争の動向に直接的には関係しなかったと考えている。

柴田氏は3王について以下のように書いている。

項羽が黥布以外に出兵を命じた記事が見出せないことは、項羽政権が周辺の諸国に対してそもそも強固な規制力を有しておらず、ましてや軍事動員を一方的に強要できるような存在ではなかったことを示唆する 。項羽にとっては、黥布くらいしか動員し得る可能性のある対象がおらず、しかもその黥布にも距離を置かれたのである 。

年表

漢元年(前206年)1月 項羽による18王分封。
4月 諸王が封地に就く。ただし項羽は韓王成を封地へ行かせずに彭城まで同行させた(のちに侯におとし、最終的には殺害する)。
5月 で田栄が反乱を起こす。
6月 田市が封地の膠東(斉東部)へ行く途中に田栄に殺される。田栄は斉王となる。
7月 劉邦が関中に侵攻。8月までにほぼ関中全土を手中に収める。分封された領土を合わせ、旧地域全土を領有する。
同月 臧荼、遼東王韓広を攻め滅ぼし、旧地域全土を領有する。
同月 項羽韓王成を誅殺する。
8月 項羽、鄭昌を韓王にする。

漢2年(前205年)10月 項羽、楚の3王に命令して義帝を殺害する。
同月 常山王張耳が陳余に攻められ逃走、劉邦のもとへ行く。陳余はもとの趙王趙歇を趙王に復帰させ、自分は代王になる。
11月 劉邦、秦の3王のうち塞王司馬欣・翟王董翳が降伏する。 同月 劉邦、河南王申陽(河南は魏の西部)を降伏させる。
同月 劉邦、韓王鄭昌(魏の東部)を降伏させる。旧地域は劉邦が領有する。
1月 項羽、斉を攻め、王・田栄を殺す。
2月 項羽、楚に亡命していた斉の田仮(田假)を斉王にする。
3月 田横(田栄の弟)、斉で反乱を起こす。田仮は楚に逃げたが、楚で殺される。
同月 劉邦西魏に侵略、西魏王豹は降伏する。これにより旧魏地域のうち項羽領有以外の地域は劉邦の手中に入った。
同月 劉邦、殷に侵略、殷王司馬卬は降伏する。項羽の領土がどうなったかはわからない。
4月 彭城の戦い。

彭城の戦いの直前までの情勢

楚:項羽以外の王の動向は『史記』に見られず、項羽に協力しないで中立を保ったようだ。
斉:項羽は反乱を起こした田栄を倒したが、その弟の田横が残党をまとめて反乱を再開し、交戦中。
燕:臧荼が全土を領有。
趙:陳余が事実上趙の支配者になる。
秦・魏・韓:劉邦支配下に入る。ただし項羽が領有していたはずの魏地域の領土がどうなったかが分からない。

項羽政権は発足当初から戦いが絶えなかった。そもそも中国全土を統一体とした項羽政権など無かったと考えたほうがいいようだ。項羽の思い通りになった地域は全体のほんの一部で、少し前の近しい仲間だった楚の3王ですら項羽政権を守ろうとした形跡が無い。

いっぽう、劉邦のほうは項羽に降伏してから1年数ヶ月で領有地域が一気に膨らんで、項羽打倒目前のところまで来た。