歴史の世界

楚漢戦争㉔ 戦後の韓信の処遇

楚漢戦争後、漢帝国成立の後、韓信は粛清される。

史記』における韓信の列伝である淮陰侯列伝には以下の一文が書いてある。

項羽已破,高祖襲奪齊王軍

出典:史記/卷092 - Wikisource

  • 項羽已に破れ、高祖遅いて斉王の軍を奪う。 *1 ) 斉王は韓信のこと。

佐竹靖彦『劉邦*2 によれば、項羽との戦いの後に劉邦が少数の兵を率いて韓信の本営に突入して軍の指揮権を奪ったのだろう、という。

高祖本紀にも同様のことが書いてある。

そして佐竹氏は以下のように続けて書く。

劉邦の権力欲と状況判断能力、さらに決断力は、韓信を上まわっていた。韓信の軍を奪うことに成功した瞬間、劉邦の権力は天下に及ぶことになった。

出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/p497

斉王・韓信はその抜きん出た軍才により、劉邦項羽と天下を三分できる人物だった。ただし、配下の蒯通に天下三分の計を勧められたが、韓信は悩んだ末にこれを退けたという。

劉邦韓信のことを信頼していたなったようだ。同郷の臣下への信頼度とは隔絶した差がある。上のエピソードもそうだが、滎陽を陥落された劉邦が修武に着いた途端に韓信に告げもせずに軍権を奪ったこともある *3

信頼されなかった韓信

劉邦韓信を信頼していなかった。

劉邦陣営において韓信の能力を最初に認めたのは蕭何だったことは以前書いた *4劉邦は蕭何の強い推薦によってはじめて劉邦韓信を大将軍にし、周りの反対を押し切ったのだ。

韓信軍には常に同郷の灌嬰と曹参をつけていたし、韓信が斉を鎮撫するために仮の王になることを劉邦に求めたところ、劉邦は怒りのあまり韓信軍に攻め込もうとさえした。

戦後の韓信の転落

漢帝国建国の後、韓信は斉王から楚王に転封されたまでは良かったがその後に冷遇の憂き目に遭わされる。

紀元前201年、同郷で旧友であった楚の将軍・鍾離眜を匿ったことで韓信劉邦の不興を買い、また異例の大出世に嫉妬した者が「韓信に謀反の疑いあり」と讒言したため、これに弁明するため鍾離眜に自害を促した。鍾離眜は「漢王が私を血眼に探すのは私が恐ろしいからです。次は貴公の番ですぞ」と言い残し、自ら首を撥ねた。そしてその首を持参して謁見したが、謀反の疑いありと捕縛された。韓信は「狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので、私もまた煮られるのか?」と范蠡の言葉を引いた。劉邦は謀反の疑いについては保留して、韓信を兵権を持たない淮陰侯へと降格させた。

出典:韓信 - Wikipedia

この「淮陰侯」こうが『史記』の淮陰侯列伝の由来だ。

その後、鉅鹿の郡守に任命された陳豨が反乱を起こすと、韓信長安でクーデタを起こそうと計画したが、蕭何の謀計によりあっけなく捕まって処刑された。

最期は蕭何によって捕らえられたのは皮肉な運命だ。

韓信に同情する司馬遷

藤田勝久氏は『史記』の著者である司馬遷の評価を以下のように解説している。

司馬遷は……つぎのように評価している。

もし韓信に、謙譲の精神があり、功績を誇らなければ、(周の建国で功績があった)周公旦や召公奭、太公望たちに匹敵し、後世の子孫までいけにえを供える「血食」の祭祀をつづけたであろう。これに努めず、天下がすでに定まってから反逆を謀った。宗族が殺されたのは当然ではないだろうか。

蕭何や曹参にも劣らない、最大の賛辞ということができる。たしかに韓信は、蕭何や曹参らの援助をうけており、漢王朝のブレーンとしてなら、官僚や諸侯王の一人としてとどまれたかもしれない。しかし韓信の功績は、すでにそれを許さなかったし、楚王として東方を広く領有することは危険であった。おそらく司馬遷は、こうした韓信の功績をあからさまに称賛できなかったのだろう。

一方で司馬遷は、かれの最期を嘆いている。これは韓信を非難すると言うよりも、その失脚の原因を説明しようとしたのではないだろうか。

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社メチエ選書/2006/p201-202

史記』においては韓信の活躍は特に詳細に描かれている。「背水の陣」で有名な井陘(せいけい)の戦いはその一つだ。これらの韓信のエピソードは彼が兵書に通じていたことを明らかにしているが、他の古典にも通じていたのかもしれない。これらの素養を実践として活かした人物は韓信が第一で、あまりにも抜きん出た才能ゆえに危険視されて粛清されてしまった。司馬遷はその才能を惜しみ、そして哀れんだ。

ただし韓信が粛清された最大の理由は「外様」だったからだ。このことは周知の事実だが、司馬遷は当然、書くことはできなかった。