歴史の世界

楚漢戦争⑪ 劉邦、公務員から盗賊の親分へ

今回も劉邦について。

前々々回の記事 *1劉邦の生まれ育ちについて書いたが、今回はこの続きを書いていく。

今回もテキストは佐竹靖彦『劉邦』。

劉邦

劉邦

亭長になる

劉邦は裏の社会の住人(つまりヤクザ)だったのだが、表社会の事実上のトップであった蕭何が劉邦を亭長という職に就けた。

沛県のトップは秦の中央政府から派遣された県令だが、県を実際に仕切っているのは現地採用された蕭何だった。蕭何は沛県の豪族であった。こういう人たちはもちろん裏の社会とつながっていた。

亭長の職務については後述するが、警察のような仕事も含むので蕭何は裏の社会のトップである雍歯と相談して若者頭とも言うべき劉邦に面倒な仕事をやらせたのかも知れない(佐竹氏/p115)。

亭長は下級官吏と言っても官には間違いない。当時の官と庶民の間は隔絶とした差がある。劉邦はさっそく薛の職人に頼んで冠を作った。これが有名な劉氏冠の誕生だ。(庶民と官の違いを示すために冠は必要。)(p115-116)

劉邦は泗水の亭長ということで泗水という川のほとりの亭の長なのかと思ったら職場は沛県の城郭の中にあった*2。職務としては交通運輸の末端機関としての宿泊客の接待と地域の警備業務の二つ*3。この他に県外への労役をする人夫の引率も任された*4。また、警察業務などのための他地域との交流も彼の任務のうちだった。他地域も表と裏があるのでその両方と通じる必要がある。ここらへんが純粋な役人ではなくて劉邦のような活きがいい若者頭にやらせた要因だろう。

以上のような役回りの中で、劉邦の人脈と知識を増やすこととなる。呂雉(のちの呂太后)との結婚も単父では名士であった父・呂公との付き合いで決まった。

そして より重要なことは劉邦は蕭何の期待に十分に応えたということだ。劉邦は2回目か3回目以降の人夫の引率に失敗し失職して盗賊になるのだが、それでも蕭何は沛県が決起する時にリーダーとして劉邦を選んだ。

盗賊の親分へ

高祖は亭長の職務柄、県のために夫役の人夫(始皇の稜をつくるために挑発されたもの)を酈山(りざん)に送り届けようと出発したところ、人夫は多く途中から逃げ出した。高祖は酈山に着くころおいには、みな逃げてしまうだろうと考え、豊邑の西沢に行った時、止(とど)まって酒を飲み、その夜、送ってきた人夫たちを自由に放して、「おまえらはみなどこへでも立ち去るがよい。わしもここから逃げよう」と言った。

出典:小竹文夫・小竹武夫訳/司馬遷 史記本紀Ⅰ/ちくま学芸文庫/1995/p239-240

上の出来事は始皇帝がまだ生きている頃に起きたことだ。陳勝呉広の乱のきっかけは「人夫を期日まで到着させなければ斬首」という重罰だったが、劉邦の件でも似たような重罰が科せられるのだろう。劉邦の職務放棄は斬首から逃れるためにはやむを得なかったと言える。

劉邦の逃亡先は芒、𥓘の沼沢地だった。下の地図を参照。

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出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/巻頭

佐竹氏は劉邦がここに逃げたことは『史記』に書いてあるというが、『史記』のどこに書いているのか分からないのだが、とりあえず、上の本の「第八章 芒、𥓘の根拠地の建設」に従って書いてみる。

劉邦はこの地域を亭長時代に手を付けていた。彼自身に資金は無かったので、呂雉の実家である呂氏一族から随分と助力を受けていた *5。 呂氏一族はいくつかの沼沢を開発していた。

「根拠地の建設」とはどのようなものだったのか?

この芒、𥓘の沼沢地は、魏、楚、呉、越との交通の要衝に位置していること、地理的に大きな広がりをもち、水路が四通八達し、沼沢地のところどころに丘陵があることによって、群盗の根拠地として理想的な条件をもっていた。[中略]

さらに『水滸伝』にも芒、𥓘の沼沢地のイメージが出てくるし、事実、明代までは芒、𥓘の沼沢地を舞台とする群盗の活躍が史料に記されているのである。

出典:佐竹氏/p203(太字は傍点の代用)

楚漢戦争で活躍する彭越は「若い頃は鉅野の沼沢で漁師をやりながら盗賊業を行っていた。」 *6 とあるので、劉邦は彭越が働いていた場所と同様の「群盗の根拠地」を建設したということだ。

そういうわけで、劉邦は亭長時代から兼業として盗賊の親分やっていたわけで、上述の事件が無ければ二足のわらじのままだったかもしれない(どっちが本業か分からないが)。

*1:楚漢戦争⑧ 劉邦の生まれ育ち

*2:p111

*3:p113

*4:p132

*5:佐竹氏は呂氏一族は呂不韋の血族だとしている。通説ではない。

*6:彭越 - Wikipedia