歴史の世界

楚漢戦争⑭ 関中における劉邦と項羽の確執

前回からの続き。

史記』の中の関中における劉邦項羽の行動は対照的だ。劉邦の寛容に対して項羽は非情の人に描かれている。この内容は今日の研究者によって少なからず疑われている。

前漢時代の人である司馬遷がこのように書くのは当然と思うのだが、それでも彼は後世に事実を伝えようとする努力をしていたようだ。

今回は劉邦の咸陽での対応と項羽が咸陽に入る直前までを書く。

漢元年(前206年)10月 *1劉邦は秦都・咸陽のすぐ近くの覇上に軍を進めていたが、そこへ秦王・子嬰がやってきて降伏の意を示したので劉邦はこれを受け入れた。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p118

宮殿での略奪

さて、以下は咸陽に入場した後のことについての話。

史記』高祖本紀には、

(沛公は)こうして西のかた咸陽に入った。秦の宮殿に止まり、その宿舎で身を休めようとしたが、樊噲と張良が諌めたので、秦の重宝、財物、各種倉庫に封印して、軍を覇上に還した。

と記されている。この記録によれば、劉邦は秦の宮殿に入らなかったように見えるが、同じ『史記』の留侯世家には、

沛公は秦の宮殿に入った。宮室、帷帳、狗馬、重宝、婦女はいずれも千の単位で数える豪華さであった。劉邦は宮殿に居座りたいと思った。

と記されている。

同じく『史記』の蕭何の伝記である蕭相世家によると、

沛公が咸陽に至ると、諸将は争って金帛、財物の倉庫に押し入って、これを山分けした。

とある。沛公は宮殿外にとどまり、部下たちだけが宮殿に入るわけがない。『史記』にはこのように、事実ではあるが劉邦の事跡として記しがたい記事は、高祖本紀に記さず、その他の部分に記録することがある。[中略]

秦帝国の宮殿に居座ることは、皇帝に代わって天下に号令する立場につくことである。……劉邦秦帝国の宮殿に居座ることは、明らかな越権行為であった。

出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/p305-306

佐竹氏は、将と兵による略奪は ある程度おこなわれたとする。そして略奪が「ある程度」おこなわれた後に蕭何と樊噲が劉邦を諌めて、軍を覇上に還したと推測している。この「ある程度」については「確定することは至難である」としている。私もこの推測に従う。

現代とは違って昔は略奪は将と兵の権利だった。そもそも劉邦は元盗賊の親分だったし、元・劉邦の手下たちが略奪を止められることに黙っていたとは思えない。上のような推測が妥当なところだと思う。

ちなみに、蕭相世家の引用の続きには《略奪に走る諸将を尻目に、蕭何はひとり秦の丞相と御史の役所に所蔵されている律令と図書を押収して保管した。そしてこの基礎のうえに、沛公は漢王となり、沛公は蕭何を丞相とした *2 》とあるが、膨大な竹簡を持ち出すこと自体が考えにくい。個人的には、この図書倉庫は蕭何によって封印されて楚漢戦争のあいだ消失の難を逃れた、と推測する。

関中の庶民に対する対応

11月、劉邦は関中の諸県の父老、豪族を集めて、自分が関中の王になることを宣言し、彼らの身分を保障し、軍は覇上へ還すことを約束した。

さらに劉邦は秦律のような苛法に苦しんだ彼らに同情を示し、自分が王になったからには苛法はしないと宣言した。これに秦の庶民は大喜びしたという。

有名な「法三章」(殺人・傷害・窃盗だけを罰するとした3か条の法律 *3) を宣言したのはこの時点である。ただし法三章で治まるはずもないので、実際には秦律を用いていたようだ。法三章の宣言自体も嘘かも知れないが。

項羽の到着

12月、項羽が40万の兵を引き連れて函谷関の東までやってきた。

この時点で、ある者が劉邦に進言した。

「いま聞くところによりますと、章邯は項羽に下り、項羽はみずから雍王と名乗り、関中の王になろうとしています。いまかれが来れば、沛公は関中を領有することはできないでありましょう。急いで軍隊を派遣して、函谷関を守らせて諸侯の兵を入れず、関中の兵士を挑発して軍事力を強化し、項羽の軍勢の入関を拒むべきであります」(劉邦/p319)*4

劉邦はこの進言を採用し、函谷関で項羽の秦軍を止めた。

さて、止められた項羽は大いに怒り、函谷関を攻撃、突破し、咸陽の西の戯にまで進軍した。高祖本紀・項羽本紀によれば、項羽は函谷関で劉邦が関中入りしていたことを初めて知ったという。

項羽劉邦のいる覇上のすぐ西の鴻門に陣して明日にでも劉邦を征伐しようと議論した。これを聞いた項伯(項羽の叔父)は旧知の張良を助けようと密かに合った。項伯は張良を連れ出そうとしたが、張良はこれを断り、劉邦に顛末を話した。

劉邦は話を聞いて驚愕し、張良にどうしたら良いのか尋ね、張良の進言を受け入れることにした。張良は項伯に使者になることを頼み、項伯はこれを受け入れた。こうして劉邦項羽に対して弁解できる場ができた。この場が有名な「鴻門の会」だ。

続く。



*1:二世皇帝・胡亥が二世3年に死んだため、『史記』では次の年の表記を「漢元年」とした。『漢書』は「髙祖元年」としているように、「この年から髙祖・劉邦の天下である」という歴史観司馬遷漢帝国の時代の人だからそうしたのは当然。

*2:佐竹氏/劉邦/p307-308

*3:小学館デジタル大辞泉/法三章(ホウサンショウ)とは - コトバンク

*4:史記』高祖本紀より