歴史の世界

楚漢戦争⑧ 劉邦の生まれ育ち

前回まで項梁・項羽を中心の歴史を書いてきたが、今回から複数の記事に分けて劉邦について書いていく。

テキストは以下の本。

劉邦

劉邦

劉邦の名前について

高祖,沛豐邑中陽裏人,姓劉氏,字季。父曰太公,母曰劉媼。

出典:史記/卷008(高祖本紀)- Wikisource

高祖すなわち劉邦は泗水郡沛県に属する豊邑の人。姓は劉、字(あざな)は季。父は太公、母は劉媼。

劉邦は貴族ではなく庶民・農民の子だった。父親の「太公」は「じいさん」、母親の「媼」は「ばあさん」を意味する語で、本当の名は伝わっていない。

字(あざな)というのは、現代日本での姓名の名に近いのだが、前近代の中国の貴族層においては、名は字と諱(いみな)の2つがあった。

諱は本名と言っていいとおもうが、中国の風習で諱は口にすることをはばかられた *1 。そこで本名の代わりになるもの、つまり通名が必要になるがそれが字だ。ちなみに項羽の場合は「羽」が字で「籍」は諱。

ただし劉邦が庶民の頃は諱を持っていなかった。おそらく季が本名だったのだろう。

中国での名前の付け方の一つに上から順番に伯・仲・叔・季とつけるやり方がある。三国志で有名な夏侯淵の子は上から夏侯衡(伯権)・夏侯覇(仲権)・夏侯称(叔権)・夏侯威(季権)...とつけられた(カッコ内は字) *2。(日本で一郎二郎とつけていくようなもの。)

劉邦の兄弟は長兄に劉伯、次兄に劉喜(字が仲)が、異母弟に劉交がいる。劉邦は三男なのに季なのは、季という語には四番目という意味以外に末っ子という意味を持つので、劉邦は先妻の末っ子だから季だというのが通説だ *3 。ちなみに劉交の字は游。

では、劉邦の「邦」とはなんだろう?佐竹氏の推測によれば、「邦」には方言で「にいちゃん」または「兄貴」という意味があり、劉邦はまわりから「劉のアニキ」と呼ばれていた。そして劉邦が官吏(亭長)になった時に諱が必要になったので、自らの諱に「邦」を採用した、とのこと。通説では即位してから諱を採用したとされる。(p34-37)

劉邦の生年

劉邦の生年については、前256年と前247年の2つの説があるのだが、佐竹氏は両方とも史実に合わないということで、前237年説を唱えている(詳しい理由についてはここでは書かない)。このブロクではこの説に従う。

劉邦の周辺は任侠の世界

任侠とは簡単に言ってしまえばヤクザのことだ。

現代日本ではヤクザは政治と切り離されていることになっているが、数十年前まではヤクザと政治家の密接な関係は公然の秘密だったらしい。今は厳しく取り締まられているので表立っての付き合いはできない。世界を見渡せばヤクザあるいはそれを上回るような非合法組織が政治と関わっているなんてことはいくらでもあるだろう。

劉邦がヤクザ者であったことは『史記』高祖本紀では ぼかしてあるが、いくつかの列伝の中で劉邦の少年・青年時代の実情を垣間見ることができる。

劉邦の父親の劉太公は農夫だったが、ヤクザとつるんで遊ぶのが好きだったようだ。父は盧という姓を持つ人物と仲が良かったが、その息子の盧綰と劉邦も相愛(刎頚の友?)になって 常につるんでいたという。劉邦は2人の兄が実直に農作業をしているのを尻目に、盧綰とともに不良グループを作っていた。

たとえば、後に漢帝国の丞相になる曹参と王陵もヤクザ界隈とつながりを持っていた。曹家は沛県の有力家族で県の役人を務める家でありヤクザともつながりを持っていた。というよりヤクザと交渉せずに政治・行政はできないという社会だった。いっぽう、王陵は若くして任侠として実力を認められている存在であり、劉邦は彼に兄事していた。

また当時の沛県の裏社会の顔は雍歯(のちに劉邦の臣下となる)で、表の社会の事実上の責任者は功曹掾という役職にあった蕭何だった。蕭何も後に丞相になる人物だ(曹参は蕭何の部下だった)。

表と裏が密接な関係を持っているのは沛県だけではなく、当時の中華世界では普通であったようだ。例えば魏にいた頃の張耳は裏社会の大物だったが、外黃県の県令を務めた。また項梁は貴族の家系ではあるが没落した後は裏社会とつながり、逃亡先の呉で顔役になり葬式などの行事を仕切っていた。

では、当時の「無頼の徒」がどのような人々だったか?

豊邑の沼沢地に潜んでいた無頼のものたちは、『水滸伝』に描かれた後世の梁山泊の住人がそうであったように、日頃は漁業を営みながら舟運に従事し、機会を見ては追剥ぎに転じるような連中であった。

出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2004/p85

また、碭郡昌邑県(現在の山東省菏沢市巨野県)の人、彭越も若い頃は鉅野の沼沢で漁師をやりながら盗賊業を行っていた *4



*1:日本にもこの風習は入ってくる

*2:排行 - Wikipedia

*3:佐竹氏は劉邦は後妻の子だとしている

*4:彭越 - Wikipedia