歴史の世界

楚漢戦争㉑ 滎陽の攻防

前回書いた彭城の戦いにおいて劉邦は惨敗し、劉邦自身は辛くも彭城から逃げ切って態勢を整えようとしていた。

彭城の戦いが劉邦項羽の第一番目の直接対決とすれば、滎陽(けいよう)の戦いが第二番目の戦いとなるのだが、今回はその間の情勢について書いていく。

劉邦の敗走と黥布の寝返り

辛くも彭城を脱出した劉邦は、呂沢(呂后の兄)が駐屯していた下邑に着いて一息つくことができた。ただしここも項羽の領地内であることに変わりなく安全ではない。劉邦は西の碭郡(かつて劉邦が郡守だった地)へ行き士卒を集め、さらに西の虞へ移動したところで黥布の寝返りを画策した。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p164

黥布はどういうわけか彭城の戦いに参加しなかった *1。 このことは劉邦陣営の上層部では周知の事実であったらしく、劉邦が「誰か黥布を寝返らせることができる奴はいないのか」と問うたところ、説客の随何が進んでその役を買った。

史書が伝える随何と黥布の会見については《随何 - Wikipedia》に詳しく書いてある。このエピソードの真偽はともかく黥布は項羽から離れ劉邦陣営につくことになった。

ただし、黥布は項羽が派遣した項声・龍且の軍に大敗し、妻子すら殺されてほとんど身一つで劉邦陣営にたどり着くことになる。それでも、劉邦としては項羽陣営が多大なリソース消費をして劉邦陣営が立て直す時間を稼ぐことができた。

劉邦はさらに西に引いて滎陽(けいよう)に駐屯する。滎陽は太行山脈(黄土高原の東端)と伏牛山脈(秦嶺山脈の東端)に挟まれている華北平原の最西部にあり、ここを項羽陣営に奪取されると中原の進出が極めて困難になる。

関中で留守を預かっていた蕭何は兵籍につけていない老人や未成年者を徴発して滎陽に送った。さらに韓信も兵を集めて合流し、南方の京・索の付近で楚軍を破った *2。これにより彭城の戦いの敗戦に歯止めをかける事ができた。

戦後の勢力図

戦後、項羽と劉邦以外の勢力がどう動いたか?

  • 趙・陳余:項羽と講和する。
  • 斉・田横:項羽と講和する。ただし斉の傘下に入っていた彭越は斉を離れ黄河を北に渡って黄河の河畔で群盗生活にもどった *3
  • 楚:九江王・黥布が劉邦に寝返る。しかし楚軍に攻め込まれ黥布軍は壊滅し、黥布は身一つで劉邦陣営にたどり着く。他の楚の王たちは史書に出てこない。戦争に参加しなかったようだ。
  • 魏:彭城の戦いの前に劉邦に寝返った西魏王・魏豹が再び項羽に寝返る。西魏王に戻ったようだ。宰相を任されていた彭越はすべてを失って少ない手勢を率いて黄河の北へ逃れた。
  • 韓:戦後の韓王信についてはよく分からないが、劉邦陣営にいたようだ。
  • その他:劉邦に降伏した司馬欣、董翳(とうえい)が項羽に走った。

このように戦前とは一転して項羽の圧倒的優位になった。当面は項羽が攻勢のまま事態は進んでいく。ただし寝返った面々は形勢が変われば再び裏切るような面々なので項羽も気が抜けない状況だ。

持久戦の展開

劉邦は勢いに任せて敗戦した先の戦いを反省して持久戦に転じた。

劉邦、関中に戻る

まずその計画の一環として関中の政治の安定化を図った。

漢2年6月、漢王は櫟陽(やくよう)に帰った。そこで子の盈(えい)を太子に立て、関中にいる諸侯の子たちを櫟陽城の護衛とした。このとき章邯が守る廃丘を攻め、その周囲に堤防を築いて城郭を水攻めにしたという。ここで章邯は自殺した。[中略]

こうして関中を定めた漢王は、祠官を置いて、天地や四方、上帝、山川などの祭祀を整えた。[中略]

やがて収穫期をむかえた秋8月になって、ようやく漢王は滎陽に出動した。

出典:藤田氏/p163-164

このような国家体制の確立は蕭何をトップとして旧秦帝国の官僚たちによって為されたと思われる。漢帝国秦帝国をシステムごと継承したことは良く知られていることだ。

滎陽の攻防

持久戦の2つ目の計画は滎陽の籠城戦だ。

滎陽の地には秦帝国が関東諸国の攻撃に備えて構築した一大軍事基地があり、敖倉(ごうそう)という大倉庫群が敷設されていた。この地と滎陽城を土塀で両側を囲った甬道(ようどう)を築いて糧道を確保した。さらに黄河への甬道も築いて前線の軍事拠点とした *4 *5

滎陽の攻防で劉邦陣営は項羽軍の攻撃を良く耐え抜いたが、劉邦が戻ってきても情勢が好転するということはなかった。

別働隊、韓信

3つ目の計画は、項羽軍が滎陽陥落に集中している間に、韓信を総大将とする軍隊に北方を攻撃させるというものだ。つまりは劉邦が囮となって項羽軍本体を引きつけ、その隙に韓信が他地域を平らげるという計画。韓信軍には曹参や灌嬰等の有力武将を参加させている *6

韓信軍は9月に櫟陽を出発し、裏切った魏豹が守る西魏を攻める。西魏は滎陽の後方(西)にあり、関中との連絡を遮断できる位置にある。

韓信軍は臨晋から渡航するように見せかけて夏陽から渡航して一気に攻め入った(黄河は川幅が広く激流のため渡航可能な場所は限られている)。西魏の都・安邑は攻め落とされ魏豹は捕虜になった(地名は上の地図参照)。

漢3年(前204年)10月 *7、 趙を攻める。陳余との対決の場である井陘(せいけい)の戦いは背水の陣で有名だ (井ケイの戦い - Wikipedia 参照)。韓信の戦勝により陳余と趙王歇は斬られた。

その後、韓信は燕の臧荼に使者を派遣して帰順を求めた。臧荼はこれを承諾した(何月に帰順したかは不明)。

これによって、黄河以北は劉邦陣営の支配下に入った。

滎陽陥落

韓信軍が大躍進を遂げる一方で、劉邦のいる滎陽の攻防は芳(かんば)しくなかった。

紀元前204年、楚軍の攻撃は激しく、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増・鍾離眜との間を裂くことに成功する。范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。

離間の計は成功したものの、漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を劉邦の影武者に仕立てて項羽に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。その後、滎陽は御史大夫の周苛、樅公が守り、しばらく持ちこたえたものの、項羽によって落とされた。

西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて滎陽を救援しようとした。しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる、南の武関から出陣して項羽をおびき寄せる方がいいと進言した。劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽はそちらへ向かった。そこで項羽の後ろで彭越を策動させると、こらえ性のない項羽は再び軍を引き返して彭越を攻め、その間に、劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、北に移動して成皋(現在の河南省鄭州市滎陽市)へと入った。項羽は戻ってきてこの城を囲み、劉邦は支えきれずに退却した。

出典:劉邦 - Wikipedia

ここでも劉邦は多数の犠牲を出して辛くも逃走している。こうして劉邦の弱将のイメージがついた。その一方で項羽劉邦を攻撃することに執着しているところから軍事戦略の欠如を指摘されている(劉邦側の軍事戦略は韓信が担っていた)。

彭越について。

彭越は彭城の戦い以前は劉邦に拠って魏の宰相となり、魏地の攻略を任されていたが、彭城の敗戦後に項羽陣営に全て奪われて、少ない手勢を引き連れて黄河以北へ落ち延びた。

その後の行動は詳しくは分からないが、各地を転戦する遊撃戦を展開して軍功を上げ、さらには項羽陣営の糧道を断つなどの活躍もあった。このような動きに項羽は惑わされた結果、劉邦はいくつかのピンチを逃れることができた。



*1:私の素人考えでは、元々黥布自身が項羽の配下であると認識していなかったのではないか。 もうひとつ、 黥布が分封された九江の地は彼の故郷を含んでいるのだが中国本土の中心から遠く離れた辺境で、楚の美味しい部分(北部)は全て項羽の領地となっていることに不満があったのではないか

*2:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p163

*3:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p245

*4:藤田氏/p163

*5:佐竹氏/p247

*6:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/p436

*7:漢という元号は10月を年始とする。ここでは西暦も便宜的に連動させている