歴史の世界

楚漢戦争㉖ まとめ その2

前回からの続き。

今回は項羽と劉邦がいよいよ歴史の中心人物になる時期の話。

有名な鴻門の会にも触れる。

第三幕:懐王政権と鉅鹿の戦い

懐王政権

項羽劉邦とともに項梁軍の別働隊として転戦していたが、項梁の敗死を知り拠点であった彭城へ戻った。

この時 項羽はまだ24歳か25歳の若年者で、周囲の人間は項羽が項梁の後を継ぐことができるとは思わなかった。そこで懐王は 項梁の配下であった宋義に近づいて彼の後ろ盾で権力を握った。

懐王は都を長江下流の盱台(くい)から戦いの最前線に近い彭城に遷して新しい体制を作った。そして冠軍(総司令)を宋義、副将を項羽として次の戦場に向かわせた。この戦いが鉅鹿の戦いだ。

各地の状況

鉅鹿の戦いを見る前に各地の状況について。

  • 秦・楚地域:既に書いたとおり。
  • 韓:章邯率いる秦軍の進軍に伴い、秦の勢力下に入る。
  • 魏:旧魏王室の公子だった魏咎(ぎきゅう)が魏王となっていたが、秦軍に攻め落とされた。
  • 燕:陳王の配下だった韓広が燕王となっている。
  • 斉:旧斉王室後裔の田市(でんし)が斉王となっている。ただし実権は相国の田栄。項梁と確執があり、対秦戦争には参加しなかった。
  • 趙:陳王の配下だった張耳・陳余が、趙の公子であった趙歇を王として擁立していた。

今回の鉅鹿は趙の領土。

秦軍と趙軍の動き

秦軍の章邯は項梁を敗死させた後、趙への攻撃に移った。辺境の楚東部への攻撃よりも中華の中心部である趙南部への攻撃を選択した。

二世3年(前207年)10月、章邯は大都市である邯鄲(旧趙国の首都)に入城されては長期戦になってしまうと考え、先回りして邯鄲の城壁を破壊、住民を移した。さらに秦は中央から王離将軍率いる精鋭部隊を派遣する。

張耳らは鉅鹿に籠城し、陳余は救援を募りに外へ出た。

攻撃が開始され、状況が厳しくなった張耳は何度も陳余に外からの攻撃を要請するが、陳余は「いま攻めても玉砕するだけだ」と言って動かない。

このような状況で城陥落は時間の問題となっていた。

楚軍、攻撃を開始する

11月、宋義を総大将とする楚軍は まだ黄河の南の安陽に留まっていた。宋義の戦略は鉅鹿の戦いが終わった後に、疲弊した秦軍を攻撃するというものだった。その間に斉国と同盟を結んで秦に対抗しようという長期戦略を考えていた。

副将であった項羽はこれに反抗し、宋義を斬って全権を奪い行進を開始する。

12月、項羽はついに秦軍へ攻め込む。秦軍は後方部隊も合わせて50万、項羽軍は5万程度。項羽は兵力差をものともせずに秦軍を片っ端から斬り殺していった、そのあいだ、陳余や他の援軍はその戦闘を砦から見ていた、という。

1月、王離が捕虜となる。中央から派遣された精鋭部隊は壊滅。後方を担当していた章邯は敗走したが追撃され、最終的に項羽に降伏する。

この劇的な逆転勝利は全て項羽の手柄と言って過言ではなかった。項羽が反秦勢力のトップに立ったことは言うまでもない。

別働隊の劉邦

劉邦項羽らの本隊とは別に楚の西部への攻撃を担当した。劉邦は楚地域にある秦と楚の勢力の境界にある碭郡の郡守に任命されていたが、項羽が王離軍を破るまでこの地からほとんど離れない地域で一進一退を繰り返していた。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p118

  • 前回書いたとおり、秦暦は10月を年始とすることに注意。

項羽が王離軍を撃破すると、総崩れとなった秦軍を一気に攻め込み西進した。しかし洛陽で進軍を止められると今度は武漢から秦都・咸陽を目指した。

劉邦軍は、項羽ら主力軍と比べてはるかに劣る戦力しか持っていなかったので、主要な県城の主に対して「いま降伏するなら今の地位を安堵してやる」と説得して降伏させることして、成功した。政治力(?)の勝利。

漢元年(前206年)10月 *1劉邦軍は、掃討戦をしながら咸陽へ進軍した項羽よりも早く到着すると、秦の三代目の子嬰(皇帝ではなく秦王)が劉邦に対し無条件降伏し、ここに秦は滅亡する。

「関中王」劉邦

一時的でも、関中を征服した劉邦は関中王として庶民に振る舞った。

なぜそんな振る舞いをしたのかというと理由がある。話を楚軍が鉅鹿の戦いに参戦する前まで戻す。

この時点で楚軍が関中へ攻め込むことは将軍たちは不可能だと思っていた。このような状況の中で懐王は諸将を前にして「先に関中に入った者をこの地の王とする *2 」と宣言した。懐王は手元に領土も金品も権力も持っていなかったので空約束くらいしかできなかった。この空約束を「懐王の約」という。

さて、劉邦は関中を攻め落とした。懐王の約を根拠に関中王として振る舞った。関中の三老(為政者層の者たち)を集めて自分が新しい王であることを宣言した。

有名な「法三章」(殺人・傷害・窃盗だけを罰するとした3か条の法律 *3) を宣言したのはこの時点である。ただし法三章で治まるはずもないので、実際には秦律を用いていたようだ *3

鴻門の会

さて12月になると、項羽軍が大軍を引き連れて函谷関 *4 に到着した。

劉邦は懐王の約を根拠に漢中王となったのだが項羽はこれを承知しないだろうという観測から、劉邦は函谷関で項羽の関中入りを止めた。

項羽はこれに激怒し、函谷関の防衛を撃破して進軍し劉邦への攻撃の準備に入った。このような状況で開かれたのが有名な鴻門の会だ。

鴻門の会は一言で言えば劉邦項羽の軍門に降った一連のイベントだ。『史記』にはそのように書いてはいないのだが、後の敵となる項羽の軍門に降ったということを歴史に書き残すことは憚(はばか)られたのだろう。

劉邦は「漢中王」の自称を取り消し、関中におけるすべての権限を項羽に差し出し、それまでの「無礼」を不問にしてもらった。



*1:二世皇帝・胡亥が二世3年に死んだため、『史記』では次の年の表記を「漢元年」とした。『漢書』は「髙祖元年」としているように、「この年から髙祖・劉邦の天下である」という歴史観司馬遷漢帝国の時代の人だからそうしたのは当然。

*2:先入定關中者王之

*3:法三章の宣言自体も嘘かも知れない。秦律を用いていたことは発掘した文書で分かっているという。

*4:関中への入り口