歴史の世界

楚漢戦争⑲ 劉邦の躍進

前回までは項羽政権の全体を見てきたが、今回は劉邦の分封後の展開を見ていく。

劉邦の分封

巴蜀

懐王は鉅鹿の戦いの前に諸将の面前で「先に関中に入った者をこの地の王とする(先入定關中者王之)」と言った。

そして戦いが終わり、項羽が分封をしようとする矢先に懐王は項羽に「約の通りにせよ」と言ったという。

さらに、項羽とそのブレーンの范増は「巴蜀も関中である」という詭弁をつかって劉邦を漢中の王とした。また、范増は鴻門の会の時から、劉邦を天下を狙う野心のある人物として警戒していたと言う。

しかし藤田勝久氏はこのことに疑問を呈している。

問題となるのは、十八王の分封の時点で、やがて沛公が天下を取ると意識されていたかということである。もし沛公が漢王朝を立てることが予想されていれば、たしかに「漢中もまた関中である」といって追いやったという味方もできよう。しかしこの時点で、沛公は楚王の連合軍の一つであり、さらに鴻門の会のペナルティがあるとみなされたら、その封建は漢中あたりに落ち着くのではなかろうか。

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社メチエ選書/2006/p144

漢中

劉邦が漢中王または漢王と呼ばれ、のちに漢帝国を建国するようになったのは巴蜀の他に漢中の地を分封されたからだ。漢中とは現代の陝西省の西南部にある漢中盆地のことであり、関中(渭水盆地)と巴蜀四川盆地)の間にある地である。

史記』留侯世家(張良の伝記)によれば、劉邦巴蜀を分封された後に、張良を通じて項伯に賄賂を贈って漢中を分封に加えることを働きかけて成功したという。

関中と漢中の間には秦嶺山脈を越えなければならず、漢中は秦人にとっても辺境の地であったが、巴蜀になると漢人がほとんどいない土地で、当時の中国文化とは別世界の土地だった。また、漢中からは漢江(漢水)を下って武漢から中原に出て情報を得ることができるが、巴蜀から中原に出るには漢中を通らなければならなかった。

個人的には、項羽は最初から劉邦を漢中王に分封して、巴蜀は「おまけ」でつけただけではないかと思っている。

項羽・范増が劉邦巴蜀だけを与えたとすれば、それは価値の無い場所を与える、もしくは価値の有るものを与えようとしないという意思であり、そのような意思のあるところに張良・項伯がいくら働きかけても価値の有る漢中を付け加えるのはおかしいのではないか。

韓信登場

漢元年(前206年)4月、劉邦は関中から王都となる南鄭に赴任した。僻地へ着くやいなや劉邦に着いてきた兵士または諸将までも逃亡が後を絶たなかった。劉邦はこのような事態に無関心を決め込んでいたが、蕭何が逃亡したという話を聞いてさすがに顔色を変えた。

数日経って蕭何が帰ってきたので、劉邦が蕭何にいなくなった理由を問いただすと、逃亡した韓信を追っていたというのだ。

この頃の漢軍では、辺境の漢中にいることを嫌って将軍や兵士の逃亡が相次いでいた。そんな中、韓信も逃亡を図り、それを知った蕭何は劉邦に何の報告もせずにこれを慌てて追い、追いつくと「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる」とまで言って説得した。ちょうど、辺境へ押し込まれたことと故郷恋しさで脱走者が相次いでいた中であったため、劉邦は蕭何まで逃亡したかと誤解し、蕭何が韓信を連れ帰ってくると強く詰問した。蕭何は「逃げたのではなく、韓信を連れ戻しに行っていただけです」と説明したが、劉邦は「他の将軍が逃げたときは追わなかったではないか。なぜ韓信だけを引き留めるのだ」と問い詰めた。これに対して、蕭何は「韓信国士無双(他に比類ない人物)であり、他の雑多な将軍とは違う。(劉邦が)この漢中にずっと留まるつもりならば韓信は必要ないが、漢中を出て天下を争おうと考えるのなら韓信は不可欠である」と劉邦に返した。これを聞いた劉邦は、韓信の才を信じて全軍を指揮する大将軍の地位を任せることにした。

出典:韓信 - Wikipedia

韓信はもともと項羽の下で働いていたが、軽く扱われていたので劉邦の下に移っていた。蕭何は上の事件より前から韓信が傑物であることを見抜いていたが、劉邦は蕭何の推挙を袖にしていた。そしてこの事件によって初めて意を決して「才を信じて全軍を指揮する大将軍の地位を任せることにした」。

ちなみに、韓王信と韓信を混同しがちなので注意が必要だ。

劉邦の関中侵攻

5月になると斉で田栄が反乱が起こし6月までに旧斉地域を掌握して斉王となる。

劉邦はこれに続く形で関中に兵を進め、8月までに3王を倒して旧秦地域をほぼ掌握する。

史記』淮陰侯列伝(韓信の列伝)によれば、関中侵攻の前に韓信が献言している。要旨は以下の通り。

蕭何の推挙により大将軍となった……韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、特に処遇の不満が蔓延しているため東進の機会は必ず来る。劉邦項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。また、「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」と説いた。

出典:韓信 - Wikipedia

「20万の兵士を犠牲にした」というのは、項羽が関中入りする途中で反乱を起こす予兆が見られた秦の降兵20万を坑殺(穴埋め)にしたこと。これを秦人は恨んでいるということ。

この献言は後世の評価・分析を韓信の言葉としただけかも知れないが、情勢分析と項羽と劉邦の比較評価として有効だ。生粋の軍人であり、政治行政の経験が無い項羽と、軍事力不足を政治外交力でカバーしてきた劉邦を簡潔に表している。

漢2年(前205年)11月 *1 に入ると秦の3王のうち塞王司馬欣・翟王董翳を降伏させた。さらに項羽が対斉戦争に集中している隙をついて、函谷関を出て中原に打って出た。河南王申陽(河南は魏の西部)を降伏させ、韓王鄭昌(魏の東部)を降伏させる。

漢の社稷を建てる

2月、劉邦は秦の社稷をのぞいて、漢の社稷を建てた。つまり漢王国を建国した。

社稷
中国古来の祭祀の一つ。社は土地の神,稷は穀物の神で,この両者が結合し,周代に政治的な礼の制度に取入れられ,天下の土地を祭る国家的祭祀になった。そのため国家の代名詞としても用いられる。社稷の祭りは春秋2回行われ,天の祭りである郊,祖先の祭りである宗廟 (そうびょう) と並ぶ三大祭祀の一つとして,これを主催することは長い間天子の重要な任務とされていた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/社稷(しゃしょく)とは - コトバンク

藤田氏によれば、社稷をのぞくということは国家の滅亡を意味する。そして同時に漢の社稷を建てたということは漢が秦の制度を継承するという意味を持つ。劉邦はそれまで楚の政治システムを使っていたが、この時期より秦のシステムを採用した。(藤田氏/p152)

ちなみに、『史記』蕭相世家では、劉邦が関中入を果たして咸陽の宮殿に入った時、《略奪に走る諸将を尻目に、蕭何はひとり秦の丞相と御史の役所に所蔵されている律令と図書を押収して保管した。そしてこの基礎のうえに、沛公は漢王となり、沛公は蕭何を丞相とした *2 》とあるが、膨大な竹簡を持ち出すこと自体が考えにくい。個人的には、この図書倉庫は蕭何によって封印されて、劉邦が関中を再び征服した時に改めて蕭何の手元に収まった、と考える。 *3

魏の攻略

3月、劉邦は魏の攻略する。この時期になっても項羽はまだ斉の反乱に手間取っていた。 まず旧魏地域の西部にある西魏を攻めて西魏王豹を降伏させ、東部の殷王司馬卬も降伏させる。旧魏地域には項羽の直轄地があったと言われるがこれがどうなったのかはよく分からない。一時的に劉邦が領有したかもしれない。

陳平の劉邦陣営の加入

陳平は劉邦を、そして漢帝国を支えた重要人物だ。

陳勝呉広の乱が勃発すると、若者らを引き連れ魏王になっていた魏咎に仕えるようになるが、進言を聞いてもらえず、周りの讒言により逃亡する。次に項羽に仕えて、謀反を起こした殷王・司馬卬を降伏させた功績で都尉となったが、司馬卬が東進してきた劉邦にあっさり降ったため、怒った項羽は殷を平定した将校を誅殺しようとした。身の危険を感じた陳平は項羽から与えられた金と印綬を返上し、そのまま再び出奔した。

出典:陳平 - Wikipedia

彭城の戦いへ

彭城の戦いは4月に開始する。この戦いについては次回書く。



*1:「漢」暦は10月が年始となる

*2:佐竹氏/劉邦/p307-308

*3:史記』に書いてある始皇帝及び戦国秦の膨大な事績はこの図書に拠っている。