歴史の世界

楚漢戦争㉓ 雌雄決す ── 垓下の戦い

形成は劉邦陣営に大きく傾いたが、ここから一気に勝負に向かわずに、この後しばらく戦争は続く。

以下に、雌雄が決する垓下の戦いまでを書く。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p187

広武山での直接対決

漢4年(前203年)10月 *1、 成皋において曹咎が敗北して自害したという報を聞くと、項羽は彭越との戦闘を止めて西に移動した。

劉邦陣営は成皋の東の広武山に陣して項羽と対峙して。直接対決だ。

項羽陣営は食糧に乏しいため焦っていた。彭越に兵站ルートを破壊され、食糧を焼き尽くされていたからだ。さらに韓信がいつ楚に侵攻してきてもおかしくない状況だ。劉邦陣営は当然それを熟知している。この時のエピソードが残っている

*2

漢楚両軍は長い間対峙を続け、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引き出して大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ」と迫ったが、劉邦はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいたことを持ち出して「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」とやり返した。次に項羽は「二人で一騎討ちをして決着をつけよう」と言ったが、劉邦は笑ってこれを受けなかった。そこで項羽は弩の上手い者を伏兵にして劉邦を狙撃させ、矢の1本が胸に命中した劉邦は大怪我をした。これを味方が知れば全軍が崩壊する危険があると考え、劉邦はとっさに足をさすり、「奴め、俺の指に当ておった」と言った。その後劉邦は重傷のため床に伏せたが、張良劉邦を無理に立たせて軍中を回らせ、兵士の動揺を収めた。

出典:劉邦 - Wikipedia

怪我の回復が長引いたため、しばらく大きな動きはなかった。また、この間に父・劉太公と妻・呂雉の返還するための交渉を行っている。

広武山での停戦協定

漢4年(前203年)8月、項羽陣営はあいかわらず彭越の遊撃に手を焼いて、食糧が乏しくなっていた。

劉邦陣営の父妻の返還を含む停戦協定の申し入れに項羽は一度は拒否したものの、9月には提案を受け入れた。その場所が広武山だ。

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出典:藤田氏/p183

広武山の西と東にそれぞれ劉邦項羽の陣営が対峙する。上のように両者の城の跡地が1972年の調査によって認められた。半分は黄河の水路の中にある。

両陣営の間には鴻溝という溝があった(「鴻溝」は大きな溝を意味する)。和約(停戦協定)の条件はこの鴻溝の西を劉邦の領土、東を項羽の領土とし、その上で人質の父妻を返還するというものだった。父妻が戻ってきた時、劉邦陣営は「万歳」と叫んだという。

あまりにもアバウトな領地の分割は、おそらく両者とも和約を守る気はなかったのだろう。劉邦は父妻の奪還を、項羽はなんとしても食糧を得る時間が欲しかった。収穫期が来れば項羽は息を吹き返すことができる。

和約の直後、項羽が広武山を離れると、陳平と張良劉邦に和約を破り急襲することを進言する。劉邦はこれに従って攻撃した。韓信と彭越に出兵するように命じたが、彼らは命令に従わなかったという。結局、劉邦は返り討ちにあってしまった。

破れて固陵の城に着いた劉邦張良になぜ韓信と彭越は命令に従わなかったのか聞いた。張良は二人の封地が決まっていないことを指摘して「韓信には楚地の大半を、彭越には魏地を与えることを確約すれば、両者は憂いなく戦うでしょう」。劉邦張良の策を用いて韓信と彭越を従わせることに成功したという。

この部分は『史記項羽本紀にあるが、個人的には、本当は単独の急襲をして敗北したのに、後で歴史改竄をして、敗北したのは韓信と彭越が命令を守らなかったせいとした、と思っている。あまりにも取ってつけたような進言を張良がするだろうか?

垓下の戦い

さて、項羽が敗死する最後の戦い、垓下の戦いだ。

しかし上の地図を見ると、なぜ項羽都城である彭城に戻らなかったのかという疑問が起こる。

その答えは、すでに彭城は劉邦陣営によって攻め落とされてしまったからだ。少し詳しく説明すると、斉を征服した韓信軍が楚に南下していたが、韓信は配下の灌嬰に彭城に派遣しその周辺を攻め落とさせた。

彭城より北の昌邑とその周辺も彭越により攻め落とされ、項羽の行く場所はすでに失われていた。

もはや項羽楚国の滅亡が明らかになった時、楚の大司馬周殷も寝返った。

垓下において劉邦陣営は劉邦の他に韓信・彭越・灌嬰・劉賈・周勃・その他大勢が集結し項羽軍を囲んだ。最終決戦は項羽の10万に韓信の30万が攻めかかり、項羽の敗死によって勝負が決した。

こうして楚漢戦争が終わり、劉邦が天下統一して漢帝国が建国される。

異説を考える

(佐竹靖彦『劉邦*3 によれば、「垓下の戦い」という戦闘はなく、その代わりに「陳下の戦い」があったとしているが、このことはここでは書かない。)

史記』に書かれる中国の正史においては、広武山での停戦協定(和約)の後、劉邦韓信・彭越と合して総攻撃をかけるはずだったが、両者が従わず、その理由を張良は両者の領土が未確定だったからだと言っている。そして劉邦は彼らの領土を確定して命令に従わせることに成功したという。

しかし、既に上記したことだが、張良の取って付けたような策で韓信・彭越が横に振っていた首を縦に振るだろうか?

また、停戦協定の後、項羽が彭城に戻ろうとした時には既に彭城は陥落していた。このことは韓信が停戦協定後にいち早く動いたことにならないだろうか?

このような疑問から、異説を考えてみることにした。

起点は停戦協定直後に劉邦項羽に攻めかかった時点。

劉邦軍が単独で項羽に攻めかかった

1つ目のシナリオは、本当は劉邦韓信・彭越に命令を発することなく、項羽軍に攻めかかり、そして惨敗した。その後になって両者に命令を発し、垓下の戦いで勝利した。

停戦協定直後に韓信・彭越を含めて作戦が立てられた

劉邦が惨敗したのは、項羽を引きつけるための囮だった、というシナリオ。作戦を立てたのは韓信となる。

停戦協定前に既に作戦は立てられていた

すばやい彭城陥落を見ると、このようなシナリオも考えたくなるが、考えすぎだろうか。

歴史改竄の動機は韓信

佐竹靖彦『劉邦』によれば、『史記』は高祖本紀や項羽本紀には歴史改竄が施されているが、列伝などでは史実が残っている場合がある(またはその可能性が高い)とのこと。司馬遷は改竄することに後ろめたさを感じていたのかもしれない。

私は、広武山での停戦協定から垓下の戦いまでの間の歴史は改竄されていると思っているわけだが、では、改竄の動機は何だったのだろうか?

それは韓信の功績の大きさにあると思っている。彭越も同様。

楚漢戦争全体を見渡せば、本来なら、功績の第一は韓信であり、第二は彭越にある。それなのに、劉邦の論功行賞において功績第一が蕭何、第二が曹参であった。これは韓信・彭越が「外様」であったと同時に警戒されていたということだ。そしてこの両者は漢帝国建国後に粛清されている。

停戦協定直後の戦いにおいて、韓信・彭越が劉邦の命令に従わなかったと歴史改ざんすることによって、両者に「二心あり」という印象付けをしたかったと推測する。

そして、次回は本当の功績第一である韓信について書く。




前漢帝国の歴史は既に書いている。

中国_前漢 カテゴリーの記事一覧》を参照。


*1:「漢」暦は10月を年始とする

*2:このエピソードは、楚漢戦争の物語の名場面のひとつなのだが、長くなるので、簡潔にまとめられているwikipediaの引用で済ませることにする。

*3:中央公論新社/2005