歴史の世界

楚漢戦争⑰ 項羽政権の瓦解 前編

前回からの続き。

漢元年(前206年)1月に項羽による論功行賞(十八王分封)が行われ、いちおう項羽政権が始まる。しかし早くも5月に斉において反乱が起き、ここから項羽政権は崩壊の一途を辿(たど)ることになる。

漢2年(前205年)4月に反項羽軍による彭城の戦いが起こるのだが、それまでの各地の動向を書いていく。

この記事のテキストは、柴田昇/楚漢戦争の展開過程とその帰結(上) - 愛知江南短期大学PDF)。

全体像

f:id:rekisi2100:20200813084938p:plain:w300 f:id:rekisi2100:20200813085004p:plain:w300

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社新書メチエ/2006/p142-143

十八王の分封は漢元年(前206年)1月に決められたのだが、諸侯は4月になってから封地に赴いた。

諸王たちは封地に着いた時から能動的あるいは受動的に争い事に関わっていく。多くの王が封地に基盤を持っておらず、実効支配を行う行政をする間も無いまま、中国本土は再び戦乱の時代に戻っていく。

二十国並立の体制はごく短い期間で崩れてゆく。その直接的な原因は、項羽封建を可能とした根拠自体の消滅にあった。分封の実行による諸侯就国は、項羽のもとに結集していた六国連合軍が各地に分散することを意味した。その結果、項羽が直接指揮し得る軍団は対秦戦争期に比べて著しく縮小することになった。これが項羽によって王位を与えられた王たちが以後必ずしも項羽に従わなくなった直接的な理由である。

諸侯就国によって発生した現象はそれだけではない。項羽は戦国七国をさらに分割して中国全土を二十の国に細分化した。そのことは、軍事力の規模からみれば、各国が保有する軍事力の小規模化を意味する。二十国並立体制とは、従来の半分程度あるいはそれ以下に縮小された軍団が国々に分有される体制でもあった。換言すれば、この体制が発動することによって中国には、圧倒的軍事力を保有する勢力の不在状況が生まれ、そのことが各地での新たな紛争の発生に結びついていったのである 。

出典:柴田昇/楚漢戦争の展開過程とその帰結(上) - 愛知江南短期大学PDF

  • 「二十国並立体制」とは、分封された十八王の国と、項羽の西楚国と義帝の郴県を合わせた「二十国」の並立体制のこと。

斉における反乱

秦帝国滅亡の直前までの斉は田市(でんし、でんふつ)が王として治めていた。ただし田市は傀儡の王で事実上の支配者は田栄だった。

田栄が鉅鹿の戦い以降の反秦戦争に参加しなかった理由は 《項梁の死と楚国再編》 で書いた。戦争に参加しなかった田栄は内政に専念していた。

ところが、秦帝国滅亡後、斉の地は三分割された。傀儡王・田市の領土は3分の1になり最も辺鄙な地の膠東(山東半島の先端部)に遷された。項羽が決定した論功行賞では田栄自身は言及すらされなかった。

5月に入ると田栄は動き出す。まず新しく斉王になった田都を攻め滅ぼし、膠東王になった田市には封地に行かないように言いつけた。しかし、田市は項羽を怖れて封地に向かい、激怒した田栄に追撃されて殺される(6月)。7月には済北(斉の西部)の王となった田安を攻め滅ぼし、田栄は斉の全土の王になった。

さらに秋になると田栄は彭越に使者を送って将軍の印を授けた。彭越という人物は鉅鹿の戦いには参加しなかったが、劉邦の関中入りを助ける働きをした。この時に千余の兵を得たのだが、項羽の論功行賞において言及されず、どこにも属さないままだった。項羽に対して不満を抱いていた彭越に田栄は声をかけたわけだ。

田栄は彭越に済陰(さいいん) *1 から南下して楚を撃たせた。楚は蕭公角(しょうこうかく)に命じて、兵を率いて彭越を迎え撃たせたが、彭越は大いに楚軍を破った。 *2

項羽自身が斉の征伐に動いたのは、ようやく漢2年の冬になってからだ(「漢」暦は10月より年始が始まる)。12月に平原 *3 において田栄を討伐し、2月に田仮(田假)を斉王にした。

しかし、項羽は征伐において斉人に対して容赦なく破壊・殺害を繰り返したので、斉人は各地で抵抗し、田栄の弟の田横は斉兵数万を結集した。項羽はこれを鎮圧しようとしている間に、項羽の本拠地である彭城に反楚の大軍が攻め入った。

趙:陳余の決起

陳余もまた分封に不平不満を持つ男だ。陳余は鉅鹿の戦いで奮戦した一人だった。にもかかわらず、かつての同志の張耳が王になったのに自分が南皮県 *4を含む3県しか領地を与えられなかったことに対して憤懣やる方なかった。

陳余は斉王となった田栄のもとに使者・夏説(かえつ)を送ってこう言わせた。「どうか私に兵をお貸しください。南皮をあなたの国の藩屏(はんぺい,盾)にしてみせます。 *5」 

田栄はこれを了承し兵を貸して趙王・張耳を攻めさせた。陳余は張耳を敗走させることに成功し(漢2年-前205年-10月)、項羽の分封で代王にされた趙歇(ちょうあつ)を再び趙王に戻し、自身は趙の宰相及び代王となった。実際には代に赴任せずに腹心の夏説を代の宰相として派遣した(12月) *6。張耳は旧知の劉邦を頼って逃げた。

項羽は反秦軍に加わった燕の将・臧荼を燕王にして、もとの燕王韓広は移されて遼東王とした。しかし、しかし韓広は従わなかったので、臧荼は韓広を無終で攻め殺した。これにより臧荼は燕全体の王となる(7月)。