歴史の世界

楚漢戦争⑮ 鴻門の会と懐王の約

前回の続き。

項羽の怒りを買い絶体絶命の劉邦は、項羽の陣営に訪問して弁明を行った。その場が有名な鴻門の会だ。

この話を理解する前に前提となる話である懐王の約もこの記事で扱う。

懐王の約

鴻門の会の話に入る前に「懐王の約」の話をする。

どうして地方の長官の一人でしかなかった劉邦が関中王と称したのか?項羽を止められると思ったのか?その根拠となるものが「懐王の約」と言われるものだ。

話は鉅鹿の戦いの前にまで戻る。

高祖本紀にはこの辺のことを書いているが、要約すると以下のようになる。

懐王は趙国の要請に応えて出兵を決定し、主将(上将軍)を宋義、副将を項羽とする。一方、劉邦には兵を西へ展開させて函谷関から秦都・咸陽へ攻め込むように命じた。
さらに懐王は諸将を前にして以下のように宣言した「先入定關中者王之(先に関中に入った者をこの地の王とする)。
この頃の秦軍はまだ強大で、楚国で入関を望む将はいなかった。項羽は項梁を殺された恨みがあるので、劉邦と一緒に入関することを望んだが、懐王や老将らはこの申し出を却下した。 *1

この時の優先課題は趙国の支援であり軍の主力はすべて趙国へ向かい、西方へ向かうのは劉邦の軍だけだった。劉邦の軍は総勢1万前後と思われ、西方から咸陽へ進軍しろと言われても出来るはずがない。実際に鉅鹿の戦いが終わるまでの劉邦の行軍は、劉邦が統治していた碭郡の周辺を転戦していただけだった。実際のところ中央もそれ以上は期待していなかっただろう。

さて本題。「先に関中に入った者をこの地の王とする」。これが「懐王の約」と言われるものだ。劉邦はこれを根拠に関中の為政者層に向けて「私が漢中王になる者だ」と宣言した。しかし上のあらすじで示したように懐王にしてみれば、諸将にハッパをかける意味での空約束に近いものに思われる。

しかし関中に入った劉邦はこの懐王の言葉を鵜呑みにして「私が漢中王になる人物だ」と関中の支配者層の前で公言した。そして関中王として項羽を函谷関で足止めした。

項羽がこの行為に激怒して明日にでも劉邦を征伐しようと議論したことは前回書いた通り。

鴻門の会

鴻門の会の内容の詳細についてはここでは書かない。( 鴻門の会 - Wikipedia 」などで詳しく書かれている。)

佐竹靖彦『劉邦』によれば *2、 『史記』に書かれている鴻門の会のエピソードは劉邦自身が積極的に捏造したものだとする(p302)。

以下、佐竹靖彦『劉邦』の主張に沿って書いていく。

鴻門の会が開かれる前の事件として曹無傷の裏切りがある。『史記項羽本紀には以下のようなことが書いてある。

紀元前207年の冬、項羽は先に秦を降伏させ関中に入った劉邦に対し攻め寄せてきた。曹無傷は劉邦を見限り、項羽に密使を送って「沛公(劉邦)は関中王と称して秦の子嬰を宰相として財産を独占するつもりだ」と讒言し、項羽の腹心の范増も劉邦を討つよう勧めたことで、項羽は翌日に合戦することに決めた。

出典:曹無傷 - Wikipedia

しかし、佐竹氏によれば、《劉邦軍の裏切り者とされる左司馬曹無傷は、沛公が関中王として項羽そのたの諸軍を迎えようとしていことを通知するために派遣された正式の使者であろう》と書いている(p321)。つまりは、劉邦は使者の曹無傷を通して、項羽及び諸将に対して敵意は毛頭無いこと、関中王として彼らを歓迎することを伝えた。

しかし項羽にしてみれば、劉邦が関中王として振る舞っていること自体に激怒しているので、曹無傷の弁明は宥(なだ)めるどころか火に油を注ぐ事態になってしまった。

もはや決戦は避けられない状況になった時、問題を解決するための使者を買って出たのが 項羽の叔父である項伯だった。項伯は劉邦の陣営を訪れた。

このような情勢の中で項伯がやってきたのは、劉邦に降伏を勧めるためであった。張良劉邦救うためには、かれらの降伏以外に方策はないと考え、項伯はかれらの降伏を受け入れるよう、必至に項羽を説得したのである。

出典:佐竹氏/p330

  • この部分も『史記』とは異なる。『史記項羽本紀では項伯は旧知の張良だけを助けるために、密かに張良に会いに来たことになっている。

劉邦張良に相談して、項伯の意見を受け入れることにした。つまり鴻門の会の実態は劉邦項羽に対する降伏であったということだ。

劉邦張良、樊噲、夏侯嬰、靳彊(きんきょう)、紀信等の側近のほか、百余騎のみを従えて項羽軍の駐屯している鴻門亭にやってきた。百余騎とは、諸侯の外出の際の最低規模の儀礼である。一方、亭は戦国時代から降伏の場となっていたことは前章で述べた。

出典:佐竹氏/p331

  • 秦王子嬰が劉邦に対し降伏を申し入れたのは覇上の軹道(しどう)亭だった(p304)。

史記』では、劉邦が宴会の余興の演舞を装って殺されそうになるシーンがある。張良は軍門の外にいる樊噲に宴会の状況を伝えると樊噲は軍門を押し破って中に入り、劉邦の危機を救ったことになっている。さらにその後、劉邦は隙を見て軍門を破って逃げ出したことになっている。

しかしこの話はおかしい。項羽としては軍門を二度もたやすく破られたのだからこれこそ大事件だ。そして軍門を破って逃げた劉邦に対して、項羽が何もしないのは甚だ不自然だ。樊噲が軍門を破って中に入った件も劉邦が軍門を破って逃げた件も捏造だ、と佐竹氏は書いている(p336)。

最後に「璧(へき)」の話。『史記』では、劉邦は逃げる際に張良に向かって「私は項王(項羽)に白璧を献じるために持参したのだが、献上できなかった。貴公が献上してくれ」と言ったことになっている。

佐竹氏は、《春秋以来の降伏の儀式では、降伏者は口に璧を銜(くわ)え、死装束で謝罪する》(p337)。これも秦王子嬰が劉邦に対して行った儀礼だ。実際の鴻門の会の様相は子嬰がしたことと変わらないのではないか。

この他に佐竹氏は席次についても詳細に書かれているのだが、ここでは割愛する。

まとめると、佐竹氏の見立てによれば、鴻門の会は劉邦項羽に対する全面降伏であり、演舞も無ければ途中で逃げることも無く、劉邦項羽に璧を献上して恭順を示して滞りなく降伏の儀式は終わった、とする。

そしてこの儀式が終わって陣営に帰ってきた劉邦はすぐさま曹無傷を処刑した。曹無傷は正式の使者として項羽に送ったのは劉邦であったが、劉邦は《降伏の席で、自分がかれを使者として派遣した事実はなかったと主張したのである》(p338)。こうして曹無傷は降伏を成立させるために犠牲になった。そして劉邦が降伏したという史実を隠すために、曹無傷は裏切り者として後世に伝えられることになった。

劉邦

劉邦



*1:参照:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社新書メチエ/2006/p116-117

*2:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/第十四章 鴻門の会 ほか