歴史の世界

楚漢戦争⑳ 彭城の戦い

いよいよ彭城の戦い。漢王劉邦が西楚覇王項羽に宣戦布告して、楚漢戦争の本番が始まる。

ただし、楚漢戦争の始まりの時期は諸説あるようだが、このブログでは、劉邦項羽に対して宣戦布告したこの時点を楚漢戦争の起点とする。そして彭城の戦いの起点も この宣戦布告とする。

宣戦布告

秦・韓・魏それぞれの地域をほぼ制圧した劉邦が洛陽に到着したところ、新城郷の三老が劉邦に謁見して、義帝が殺された顛末を詳細に語ったという。

漢王は大いに哭(こく)すと、喪を発して3日のちに、使者を送って諸侯に告げさせた。

天下は共に義帝を立て、北面してこれに仕えた。いま項羽が、義帝を江南に放逐して殺したのは、大逆無道である。寡人は親しく喪を発し、諸侯はみな喪服を着ている。……願わくは、諸侯王に従って、楚の義帝を殺した者を撃たんことを」

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p156

  • 寡人とは《徳の寡 (すく) ない者の意》一人称の人代名詞。戦国時代の王や諸侯が使用していた *1が、劉邦もこれを採用した。

↑は『史記』高祖本紀による。

小さな村(郷)の三老(郷のまとめ役 *2 )が義帝殺害の詳細を何故知っていたのか とか、三老が知っていることを劉邦が何故知らないのか など、いろいろツッコミどころがあるのだが、とりあえず劉邦は義帝の弔い合戦という大義名分を使って項羽を打倒すると宣言した。

劉邦は既に項羽にて期待していたのだが、これをもって初めて劉邦項羽に正式に敵対することを宣言した。

楚漢戦争の始まりの時期は諸説あるようだが、このブログでは、劉邦項羽に対して宣戦布告したこの時点を楚漢戦争の起点とする。そして彭城の戦いの起点も この宣戦布告とする。

「56万」という勢力

史記』高祖本紀によれば、劉邦は56万の兵力をもって彭城(項羽の西楚の都)を攻めた。

本当に「56万」人もいたのか はさておき、劉邦陣営はどのような勢力だったのか?

漢中・巴蜀の直属の兵と秦(関中)・魏・韓の降兵のほかに参加した勢力は陳余の趙の勢力だけだ。

斉は交戦中、燕の臧荼や楚の項羽以外の諸侯王は日和見をきめて参戦しなかった。黥布が項羽の参戦要請を断ったことは有名だ。

彭城制圧と項羽の急襲

項羽は斉の反乱軍と戦闘中で、都・彭城を留守にしていた。ここに劉邦の大群が押し寄せ、彭城はあっけなく陥落された。

劉邦は連合軍に対して全軍の指揮を執らず、各国の軍に指揮を任せていた。また彭城制圧後、かつて秦の咸陽を制圧した時のように劉邦を諫める者もいなかったために、城内の財宝を荒らした上に城内の女性を犯し、毎日酒宴を開く有様であった。

出典:彭城の戦い - Wikipedia

項羽の急襲

斉の地で反乱軍の掃討戦に転戦していた項羽は彭城陥落の報を聞いて、すぐさま彭城に向かう。

英布の援軍もなく彭城が制圧されたことを聞いた項羽は激怒し、すぐさま斉と停戦協定を結び、3万の精鋭部隊を編成。彭城へと戻った。

連合軍に士気がない上に酒に酔っていることを知ると、項羽は夜明けと共に城の西側から攻め、城内の連合軍を打ち破り、漢軍10万人余りを殺した。連合軍が城外に出ると項羽は追撃し、さらに漢軍10万人余りが睢水に追い詰められて殺され、川の水がせき止められるほどであったという。

そのため、連合軍は散り散りになって逃走し、劉邦は途中に家族が住む沛に立ち寄るものの既に劉太公や呂雉ら家族が捕らえられ、劉盈とその姉を見つけたので馬車に乗らせて逃亡した。途中、劉邦は恐怖に駆られて馬車から子供たちを突き落として逃げようとしたものの御者の夏侯嬰に諭されて子供らと共に逃亡した。

出典:彭城の戦い - Wikipedia

劉邦の家族は故郷の沛県にとどまっていた。父親の太公と妻の呂雉(のちの呂太后)は子どもたちと別に逃げた道中で項羽軍に捉えられて人質になる。

  *   *   *

これ以降のことは次回に続く。