秦代あるいは秦朝は始皇帝による中華統一から滅亡までの期間を指す。前221年から前206年までのわずか15年間だが、始皇帝が築いた統治システムは次代の前漢に継承されてその後の王朝の統治システムの土台となっている。
政策
始皇帝が亡くなってすぐに秦は滅亡してしまったので、始皇帝の政策=秦の政策ということになる。
↓は始皇帝の主要な政策。後世にどのような影響を及ぼしたのかまで分かる。
出典:浅野典夫/図解入門よくわかる高校世界史の基本と流れ/秀和システム/2005/p65
政策についての細かい話は前回までの複数の記事で書いた(「中国_秦代/楚漢戦争」カテゴリー参照)。
上の図解の「法家の採用」とは、浅野氏の説明によれば、戦国秦の商鞅からの内政改革を指しているとのことだが、基本的には成文法に基づく行政システムと解釈していいだろう。すでに戦国時代には確立していたものだが。
「焚書坑儒」は思想統制政策で、丞相・李斯は学問の自由が体制批判につながると考えて全国の書物を焼却処分にした。戦国時代の諸子百家の論争華やぐ時代はここで断絶した。思想統制ような考え方は商鞅の改革を想起させる。現代の中共政権にまでつながるかもしれない。
先秦と秦代以降の違い
「先秦」という言葉があるように、秦代は中国史の中の大きな画期となっている。
どのような画期になっているのか、以下に3つ挙げる。
焚書政策
「先秦」という言葉がある。秦より前の時代すべてを指す言葉。
典故は『漢書』景十三王伝にあり、「(河間)献王の得るところの書はみな古文先秦の旧書」とあり、顔師古注には「先秦は猶お秦の先を言うがごとし。未だ書を焚せざる前を謂う」とある。
出典:典故は『漢書』景十三王伝にあり、「(河間)献王の得るところの書はみな古文先秦の旧書」とあり、顔師古注には「先秦は猶お秦の先を言うがごとし。未だ書を焚せざる前を謂う」とある。
上記のように、始皇帝と李斯による焚書政策のせいで、先秦の史料がごく少量しか遺っていないために、歴史の中で秦代が画期となっている *1 。
中華統一
春秋戦国時代(前770年-前221年)は長い分裂時代だった。これを始皇帝は統一する。始皇帝の死後すぐに再び分裂したが、劉邦が建国した漢により長く続く統一体としての中国が作られた。劉邦は秦の政策をほとんどそのまま流用したので、劉邦は始皇帝の継承者だと言える。
夏殷周の三代について
中国の正史では、秦よりも前の時代に3つの統一体があったとされている。
ただし、日本の研究者の中には夏王朝の存在を否定する人が多く、加えて夏王朝の文字資料が皆無のために、王朝の話は殷から始まる(中国では夏王朝が存在することは政府の決定事項になっているらしい)。
殷周代は封建体制のため、秦代以降の皇帝による統治システムとは全く異なる。殷や周の王室の領地以外の地方は諸侯と呼ばれる人物が統治してほとんど独立していた。
よって始皇帝が作り上げた統治システムは、彼より前には存在しない *2 。
滅亡
始皇帝が亡くなるとすぐに帝国は滅亡への向かう。
皇帝を継承した二世皇帝の胡亥が宮中へ引きこもり、趙高に実権を丸投げしてしまった。趙高の本当の役目は宮中全体を管理する責任者程度であったが、二世皇帝と朝廷を取り次ぐという名目で政治を動かした。
趙高は始皇帝の政策を継続しようとしたが、臣下を動かす能力を含めて全国を統治する能力を欠いていた。
また図解にあるように、始皇帝の治世に急ピッチで進められた幾つもの大事業のために、臣民ともに疲弊していた。さらには、戦争に対する秦への恨みはまだ地方に残っていた。
これらのストレスは、有名な陳勝・呉広の乱により爆発して各地で反乱が始まった。これらの反乱の中に項羽と劉邦がいる。
最後は帝国軍の主要な将軍が項羽軍に投降して、事実上 秦帝国は破綻した。三代目となる子嬰は、皇帝を名乗らず秦王として劉邦軍に投降した *3 。
本当にあっけない滅亡だったが、これによって始皇帝の有能さが証明されたといえるかもしれない。ただし、「二世、三世、万世と伝えていく」と言った割りには次代については考え無しだったようだ。