歴史の世界

秦代①:政策(1) 前置き/皇帝号の採用/他の用語変更

秦帝国が整備した統治体制は、後の中国の歴代王朝が継承した。ということは、始皇帝(を含めた秦帝国の為政者たち)が中国帝国史の基本を作ったということも出来る。

現在の中華人民共和国国家主席世襲ではないが、帝国の体制は継承しているようだ。現代の中国を知るためにも秦帝国を知ることは有益になるだろう。

前置き

秦が中華統一を果たしたのが前221年、秦王政(始皇帝)の即位26年、39歳。

始皇26(前221)年から37(前210)年[始皇帝死去の年]までの12年間は、始皇帝にとって1年1年が濃密な時間であった。『史記』秦始皇本紀の記事もこれまでと異なって一気に文字数が増加し、始皇25(前222)年がわずか43字であったものが、翌26年は930字にまで跳ね上がる。司馬遷はこの12年のうち前半6年を統一事業の時代、後半6年を匈奴と百越との対外戦争の時代として描いている。

出典:鶴間和幸/人間・始皇帝岩波新書/2015/p95, 97

統一した同年に多くのことが決められた(すべて同年できめられたわけではないが)。戦国時代の秦国の政治体制をベースに、新しいものを加えていった。

↓は始皇帝の主要な政策。後世にどのような影響を及ぼしたのかまで分かる。

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出典:浅野典夫/図解入門よくわかる高校世界史の基本と流れ/秀和システム/2005/p65

皇帝号の採用

中華統一を果たした同年、まず最初に決められたのが皇帝という称号の採用だった。

史記』秦始皇本紀によれば、御前会議が開かれ、秦王政の他の発言者として丞相(総理大臣)の王綰(おうわん)、御史大夫(副総理)の馮劫(ふうきょう)、廷尉(最高司法長官)の李斯が登場する。

すでに昭王[昭襄王のこと -- 引用者]の時代に斉王が東帝と称したことに対抗して西帝と称したことがあるので、秦王は東帝に代わる帝号で五帝を超える称号を求めていた。天下という広大無辺の地を治めるのに王ではものたりず、帝でなければならなかった。さらに説明を加えるならば、中国古代では王国(国に王たり)と帝天下(天下に帝たり)とは別概念であり、帝国(国に帝たり)とか王天下(天下に王たり)という考え方は成り立たなかった。私たちが歴史概念として頻繁に使用する「帝国」は、中国ではまれにしか用いなかったこのことばを翻訳語に当てたために広がったものである。6王を捕虜としたことで、天下を治める帝になろうとしたのである。

出典:鶴間氏/p106

秦王政は「帝」の字にこだわった。秦王は、上に書いてあるように国家の支配者ではなく、天下の支配者たらんとした。

さらに、鶴間氏によれば、「帝」は地上世界の支配者という意味とは別に、天上世界の支配者という意味もあった。「帝星」といえば天界の中心である北極星を表す(p107)。政は自身を自らを神格化しようとしたようだ。いや、秦王は不老不死になろうとしていたから本気で天上世界と人間世界の両方の支配者である「帝」になろうと考えていたかもしれない。

いずれにしても、国家ではなく天下の支配者たらんとする発想は中華思想である。この考え方も後世の支配者は継承した。

さて、御前会議の話に戻る。大臣たちは秦王とは異なるものを提案した。

大臣たちは博士たちの知恵を借りて、五帝よりも古い天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、泰皇(たいこう)に権威を求め、そのなかから泰皇を選択した。秦王の帝号の要求と大臣の泰皇の提案にはずれが感じられる。「皇」も「帝」と同様に天を意味しており、大臣たちは「帝」よりも「皇」を選んだのである。

出典:鶴間氏/p106-107

「泰」は「泰一(太一)」に通じる。これは天帝を指す言葉だ *1。 さらに言えば「太一」は北極星の神名である。秦王と方向性は全く同じだ。

だが、秦王は「帝」にこだわった結果、「泰」を採用せず、代わりに「皇」と「帝」をくっつけて「皇帝」という新たな称号を造語した。

こうして、中華思想を前提とした発想の中から「皇帝」という称号が誕生した。

人間・始皇帝 (岩波新書)

人間・始皇帝 (岩波新書)

用語変更

御前会議では、称号の他の用語の変更も提案された。『史記』によれば、大臣たちは命を「制」、令を「詔」、皇帝の自称を「朕」とするように提案した。これについては秦王は了承した。

この場合の「制」は皇帝が行う一般的な命令、「詔」は臣下の審議に始まり上奏と皇帝の裁可をへてくだされる文書のこと *2




北極星すなわち天の北極にある星は、時代によって違うらしい。天文学についてはあまり興味が持てないので、詳しくは北極星 - Wikipedia等を参照。


*1:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/p53

*2:鶴間氏/人間・始皇帝/p104