歴史の世界

秦代⑬:始皇帝の死から秦帝国滅亡へ

前210年、始皇帝は第5回の巡行の途中で死去する。これをきっかけに強大な新帝国は わずか3年で崩壊する。

この記事では、政権の内部崩壊のことを書く。項羽劉邦の反乱側については別の記事で書く。

二世皇帝・胡亥と権力者・趙高

皇太子がいない状態で皇帝が死んだので、当然のごとく後継者争いが起こった。長子・扶蘇と末子・胡亥の間で争われたが、胡亥の勝利に終わり、扶蘇は殺された。

胡亥が皇帝の座に就いた時の年齢は12歳と20歳と2つの説があるが、いずれにせよ胡亥は宮中に引きこもって政治のことは趙高に丸投げしてしまった。

趙高とはどういう人物か?長い間 宦官 *1 として始皇帝の側に仕えていた人物。中車府令に就いていたのだが、この役職は始皇帝が宮中を離れる時は常に車に同乗して仕えることが任務だった。この任務の他に趙高は胡亥の教育係も命じられていたので、始皇帝の信頼の厚さがうかがえる。

始皇帝亡き後、胡亥が頼れる人物は趙高しかいなかった。趙高は郎中令(宮中を職務いっさいを管理する役職)となって、引きこもった胡亥と李斯ら閣僚との間を取り次いだ。

こうして趙高が胡亥に代わって宮中から政治を行う体制が出来上がった。

年表

ここから年表を書いていく。わずか3年だが、ある程度詳しく分かっている。ソースは鶴間和幸『人間・始皇帝』の「始皇帝関係年表」。年度が10月から始まることに注意。

前210年後9月(閏9月) 始皇帝の喪を発表し、胡亥が皇帝に即位(二世皇帝)。
前209年10月 趙高が郎中令に就く。
同年10月 始皇帝の寝廟に備える犠牲と山川祭祀の礼の供え物を増やす。
同年春 二世皇帝、全国を巡行を実施。
同年春 二世皇帝、大臣の蒙毅を殺し、蒙恬を服毒自殺させ、さらに始皇帝の公子12人を咸陽の市場で殺し、10人の公主(始皇帝の娘)を杜県で身体を裂いて処刑する(李斯列伝)。秦始皇本紀では、6人の公子を杜県で殺したという。
同年4月 始皇帝陵の墳墓の土を盛る工事が終わったので、阿房宮の工事を再開させる。
同年7月 陳勝呉広の乱、起こる。民衆の支持を集めるために陳勝扶蘇呉広は項燕(旧楚の英雄)を名乗った。張楚を建国し、陳勝が国王となる。
同年9月 項梁と項羽劉邦がそれぞれ反乱を起こす。
前208年冬 陳勝軍が始皇帝稜の近くまで進軍する。この時の兵数は数十万人まで膨れ上がった。秦の将軍・章邯は始皇帝稜で働いていた囚人を群に編入して防戦した。ここでようやく秦軍が反転攻勢し、陳勝軍は後退し続けた。
同年12月 陳勝が殺され、張楚国は滅亡。だが、各地で反乱軍が次々と立ち上がり、秦軍は再び防戦を強いられた。
(12月から7月の間) 丞相李斯・馮去疾(秦の丞相は二人体制)と将軍馮劫が二世皇帝に阿房宮の工事を中止などを訴えたが、聞き入れられず。馮去疾・馮劫は諫言したことを罪とされて、自殺に追い込まれる。
前207年冬 李斯の長男で三川郡守の李由が生前楚軍と内通していたという罪(濡れ衣)で処刑される。趙高が丞相に就く。
同年1月 鉅鹿の戦いにおいて、秦将王離が項羽の捕虜となり、秦将蘇角は殺され、同じく秦将の渉間は焼身自殺した。
同年4月 秦将章邯、連戦連敗の状況で中央に援軍を要請するも拒否される。 同年7月 秦将章邯・司馬欣・董翳が項羽に投降。秦帝国の崩壊は決定的となる。
同年8月 趙高、二世皇帝を自殺に追い込む。
同年9月 二世皇帝の兄の子の子嬰が秦王となる(趙高が全国を統治できない現状に合わせて、皇帝ではなく秦王を名乗るようにした)。
同年9月 秦王子嬰、趙高を刺殺。
前206年10月 子嬰、進軍してきた劉邦に投降。秦帝国滅亡。

趙高の評価

以上のように、秦帝国を滅亡させた張本人は趙高だった。二世皇帝胡亥に丸投げされた形で実権を握った趙高は公子・公主を殺し、閣僚を殺し、将軍たちには敵軍に投降された。

他人を従わせる能力も勢力も持ち合わせていなかった趙高は粛清の恐怖で従わせようとしたが、統治能力の無い彼に諫言をしただけで殺されてしまうのだから国が凋落したのは当然のことだ。

また、陳勝呉広の乱は「秦の法ではいかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首である」という法律が原因で起こったというから、趙高は閣僚から農民まで容赦が無かったということになる。

始皇帝の中華統一やその後の治世に恨みを抱いていた人々は多く存在したとは思うが、始皇帝を継承した趙高の政治はこの不満にさらなる不満を上乗せした挙げ句に爆発させた。地方の反乱に対応する閣僚まで殺してしまい、挙句の果てには自身も殺された。



*1:鶴間和幸『人間・始皇帝』(p203)によれば、秦代の宦官は「宦者」と呼ばれていた。宦官が去勢された男子に限定されたのは後漢以降のことなので、趙高が去勢された宦官(宦者)であると断定はできない。