歴史の世界

秦代②:政策(2) 諡(おくりな)の廃止/「水徳」の採用:五行説について

前回に引き続いて秦代の政策について書く。「こんなものは政策ではない」とは思うが他に適当な言葉が思い浮かばないのでとりあえず「政策」としてみた。国家の根幹となる大事なことだ。

諡(おくりな・シ)の廃止

まずは諡の説明。

王公貴族の家では、子孫が祖先のために宗廟(そうびょう)を設け、その中に木主(ぼくしゅ)を立て諡を書いて祀(まつ)ることは、仏教において法号を書いた位牌(いはい)を祀るごときものであった。諡にはその人の生前の行為により適当な文字を選ぶ。『史記正義』の首に唐の張守節の諡法解(しほうかい)を載せているが、それによると、文王、武王、成王などは徳の高い王者に贈られる美名であり、幽王、霊王などは徳の劣った王に対する醜名であって、平王、荘王などはその中間に位する。諸侯の場合は桓公(かんこう)、武侯のようにそれぞれの爵に従う。[以下略] [宮崎市定

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/諡(シ)とは - コトバンク

「木主(ぼくしゅ・もくしゅ)」とは《神や人の霊魂にかえてまつる木製のもの》 *1。 簡単に言うと位牌。 *2

諡 - Wikipedia」によれば、「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味し、「文王」の「文」を諡、「文王」を諡号(シゴウ)と呼ぶ。《中国の戦国時代に成立した『逸周書・諡法解』は諡法について定めた最初の書であり、長く諡号選定の準拠とされた。 》

以上が諡の説明。

これに対して、始皇帝は「臣が君主の死後君主の業績を評価すべきではない。始皇帝、二世皇帝、三世皇帝……万世皇帝と自動的に決めるようにせよ」(諡 - Wikipedia )と命じた。

ただし、 前漢代以降、諡をつける慣例は復活した。

「水徳」の採用:五行説について

「水徳」というのは五行説五行思想)に根拠を置く。

五行思想 - Wikipedia によれば、五行説は戦国時代の斉の鄒衍が創始した。

↓は大辞林の説明。

中国古来の世界観。木・火・土・金・水の五つの要素によって自然現象・社会現象を解釈する説。五行相勝(相剋)は火・水・土・木・金の順に、後者が前者に打ち勝つことで循環するとし、戦国時代の鄒衍すうえんなどが説いた。五行相生は木・火・土・金・水の順に、前者が後者を生み出すことで循環するとし、前漢の劉向などが説いた。

出典:三省堂大辞林 第三版/五行説(ゴギョウセツ)とは - コトバンク

自然現象は5つの要素(または元素)から作られるという発想はギリシア哲学の「四元素」とよく比較される。こういったものは現代でいうところの「科学」と認識されていたようだ。近現代の科学は実験による証明を重んじるが、古代では実験という概念が確立されていないため、経験と観察に基づく説得力のある説が「科学的な事実」として受け入れられた。現在、五行説と四元素は占い・オカルト・サブカルチャーでよく見られる。

さて、次に五行相勝(相剋)の思想から↓の説が生み出された。

五徳終始説
中国、戦国時代の斉(せい)の陰陽家(いんようか)、鄒衍(すうえん)が唱えた説。この説については『史記』の「始皇本紀(しこうほんぎ)」や「孟子荀卿(もうしじゅんけい)列伝」の鄒衍の条および『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』の「有始覧」「応同編」などに述べられている。それによると、天地開闢(かいびゃく)以来、王朝はかならずその有するところの五行(ごぎょう)の徳によって興廃または更迭(こうてつ)するが、その更迭には一定の順序があり、王朝がまさに興ろうとするときは、その徳に応じて瑞祥(ずいしょう)が現れるというのである。その五徳の推移は、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つという五行相勝(そうしょう)(相剋(そうこく))の順序である。そして、秦(しん)以前の4王朝を、黄帝(こうてい)を土徳、夏(か)の禹(う)を木徳、殷(いん)の湯王(とうおう)を金徳、周の文王(ぶんおう)を火徳にそれぞれ配当し、五行相勝説によって前王朝から次の王朝に移るとし、最後は水徳である秦(しん)王朝が政権をとり、これこそが永久性と絶対性とをもつ真の王朝であると説くのが、本来の五徳終始説である。[以下略] [中村璋八]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/五徳終始説(ごとくしゅうしせつ)とは - コトバンク

秦はこの説を採用して水徳自らを「水徳」とした。秦ではこの五行の「水」に基づき「冬」「黒」「六」を制度改革のキーワードとした *3五行説では、季節・色・数字など あらゆるものが5つに まとめられて割り当てられた。詳細は「五行思想 - Wikipedia」を見ればおおまかのことは分かると思う。ちなみに「三皇五帝」の五帝もこれに影響されてできた用語のようだ *4

季節は4つしかないが、五行説では四季に「土用」を加える。土用とは《四立(立夏立秋立冬立春)の直前約18日間》(土用 - Wikipedia )のこと。

秦では「冬」を年の始めとした。10月が年初。衣服や旗は「黒」、数字は「六」を基数とした。度量衡の「一歩」は6尺とした。

おまけ:五行説のその後

前漢

秦代の歴史ではないが、五行のその後の話を書きとどめておく。

まずは前漢前漢は3つの色を持つ。黒(水徳)、黃(土徳)、赤(火徳)。

「漢は赤」と思う人は多いだろう。『史記』高祖本紀に赤帝の子(劉邦)が大蛇を切った話が赤のイメージを抱かせるかもしれない。また人によってはマンガの本宮ひろ志『赤龍王』を思い出すかもしれない。

しかし前漢初は水徳を選ぶ。岡田英弘氏によれば *5、 秦代のシステムをそのまま受け継いだということで水徳のままだった、という。別の解釈だと、前漢初の為政者は五徳終始説は受け入れたが、秦が天下を継承したことを認めずに漢が五徳終始説における最後の(永遠に続く)王朝であるとした。どちらかは分からない。

武帝

しかし武帝代になると、五徳終始説を振出しに戻し、武帝みずからを黃帝になぞらえて、土徳とした。

土徳の季節は「土用」(上述)であるが、暦は1月を年初とした。↓は以前引用したもの。

太初元年(前104)、武帝は秦代以来の顓頊暦に替え太初暦を施行した。暦が日食などの天文現象とズレてきたためであるが、この改暦には重大な思想的意義があった。古来中国では、新たに天命を受けた王朝を開いた者は正朔(暦)を改め服色(衣服車馬などの色)を変えるという受命改制の思想があった。武帝は太初暦の施行に伴い歳首〔年の始め〕を正月とし、漢を土徳として色は黄、数は五を尊ぶとともに、多くの官名を一新した。多くの周辺諸国を影響下に置いて中国中心の東アジア世界を現出し、帝業を完成した者だけが行える封禅を既に挙行した武帝にとって残るは改制だけであり、それがこの太初暦施行であった。これによって漢王朝は秦制から完全に脱却したのである。

出典:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p92/上記は鷹取祐司の筆

前漢末/新代/後漢

さらに火徳にかわるのは前漢末のこと。前述の劉向の五行相生説だ。

五徳終始説とは、王朝の交替・変遷を五行の循環で説明するものであり、前漢では五行相克説に基づき、王朝の徳は土→木→金→火→水の順序で循環し、漢朝は土徳であるとしていた。劉歆はこれに対して、五行相生説に基づく新しい五徳終始説を唱え、五徳は木→火→土→金→水の順序で循環し、漢王朝は火徳であるとした。この理論が新朝から宋までの1000年間、継続して用いられた。 出典:劉キン (学者) - Wikipedia

劉歆(劉キン)は劉向の息子。この父子は「劉邦=赤帝」にちなんで漢王朝は赤(火徳)だとした。難しいことは割愛するが、新しい五徳終始説をつくったのは漢王朝を火徳にするためのこじつけだった。

この説を前漢末に王莽が採用して彼が建国した「新」王朝は土徳となった。しかしこの王朝はすぐに後漢・劉秀に倒された。この劉秀も劉歆の説を採用し「漢王朝=火徳」とした。

黄巾の乱

後漢末に黄巾の乱が起こる。黄巾賊の黃は土徳の黄色だ。しかしここで一つ問題が起こる。「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。」という言葉だ。

蒼天は後漢王朝を指すとされ、なぜ「蒼(青)」なのか?という問題。

この問題の回答は諸説あるようだが、私は蒼天は青い空ではなく、「蒼天=(後漢王室の)天命」という説を支持したい。 詳しくは 《黄巾賊が掲げたスローガンと五行思想(五行説)の謎 | もっと知りたい!三国志 》などを参照。



*1:木主(もくしゅ)とは - コトバンク

*2:周の武王が殷の紂王に対して兵を挙げた時、文王(西伯)の位牌を戦車に乗せたというエピソードがあるが、『史記』周本紀の原文には《載西伯木主以行》とあって「木主=位牌」と訳すのが普通のようだ。ネタ元は《儒教の葬儀と位牌。 | 人生朝露 - 楽天ブログ》。

*3:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/p54

*4:五帝の五という数字が先で、中身の5人の人物が後。三皇五帝 - Wikipediaなどを参照。

*5:だれが中国をつくったか: 負け惜しみの歴史観 - 岡田英弘 - Google ブックス