歴史の世界

楚漢戦争① 陳勝・呉広の乱

楚漢戦争は「項羽と劉邦の戦い」とも呼ばれ、劉邦項羽に対して反旗を翻す前206年から始まるのだが、ここではその前段として最も重要な陳勝呉広の乱から話を始める。

陳勝呉広の乱

陳勝呉広の乱

秦の始皇帝の死後の前209年に起こった農民反乱。翌年鎮圧されたが、秦の滅亡をもたらした。

始皇帝の死の翌年の前209年7月、秦の支配に対して起こされた農民反乱。この後に中国で続く、農民反乱の最初のものとして重要。その首謀者陳勝呉広はいずれも貧農出身。かれらが反乱を起こすとたちまち中国全土で秦の圧政に対する不満が噴出して、各地で呼応する反乱が起こった。陳勝呉広の軍は内紛から瓦解し、鎮圧されたが、それに誘発された農民出身の劉邦の挙兵、また楚の王族であった項羽の挙兵などが一挙に秦を滅亡させることとなる。

陳勝 貧農出身の人物
陳勝は河南の貧農出身であったが軍隊に徴発され、任地に赴く途中、大雨に遭って入営に遅れ、そのままでは死刑になると考え、仲間の呉広とともに兵士に反乱を呼びかけた。前209年に蜂起し、引率の隊長を斬り、陳勝が将軍、呉広が都尉となって群衆を扇動した。そのときの言葉が「王侯将相いずくんぞ種あらんや」である。たちまち数万の大軍となると、陳勝は王位につき「張楚」という国号を称した。また各地で呼応する反乱が起こった。しかし、陳勝呉広は力を持つと昔の仲間を無視するような態度に出たため二人とも部下に殺され、反乱は内部から瓦解した。

出典:陳勝・呉広の乱

この反乱はわずか半年で終わったが、これに呼応した勢力が秦帝国を倒したことは引用の通り。

反乱決起から陳県入城まで

二世元年(紀元前209年)7月、陳勝呉広は辺境守備のため、半ば強制的に徴兵された農民900名と共に、漁陽へと向かっていた。しかしその道中、大沢郷(現在の安徽省宿州市の東南部)にさしかかったところで大雨に遭って道が水没し、期日までに漁陽へとたどり着く事が不可能になる。秦の法ではいかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首である。[中略]

彼らはまず大沢郷を占領、それから諸県を攻略し、陳を取るころには兵車600乗・騎兵1000余・兵卒数万の大勢力になっていた。陳を攻めた時、郡守・県令は既に逃亡しており、副官が抗戦したがあっという間に陥落した。陳に入城した陳勝はここを本拠とし、即位して王となり、国号を張楚と定めた。

出典:陳勝・呉広の乱 - Wikipedia

陳勝呉広の両者は貧農層の人だった。2人は官吏に命じられて人夫を護送する任務を負わされていた。上記のように、彼らは座して死罪を待つか反乱を起こすかの選択を迫られた時、引率の尉(下級将校)を殺して反乱することを選択した。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p83

彼らの行動は地図に示されている。

陳に入城する時の軍勢は郡ひとつ分に匹敵した。

ここで陳渉[渉は陳勝のあざ名 -- 引用者]たちは、陳郡の治所[政庁のある所]で、県令に代わって守丞が防衛していた城郭を占領した。

こうして陳県を占領するまでの過程をみると、陳渉たちは、一応は秦の郡県制のシステムにのっとりながら、その軍事系統を奪取していた。だからその蜂起は、漢代の賈誼(かぎ)が秦の滅亡を評した「過秦論」でいうように、必ずしも「木を伐って武器とし、竿を掲げて旗」としたり、「弓や戟(げき)の武器を持たず、スキやクワ、こん棒などを持って、食料を取って天下に横行した」というものではないとおもわれる。そして数日すると、県の三老と豪傑たちを招集して、ともに計略を練っている。

出典:藤田氏/p84

陳を落として拠点を作るという戦略を持てたということは、反乱から陳県入城への過程で将校クラスの人物が陳渉陣営にいたことになる。陳県入城の後も貧農の陳勝が受け入れられたことが信じられない出来事のように思うのだが、誰かお膳立てができる人物がいたのだろう。

張楚」建国

陳県の人々に受け入れられた後、陳勝は「張楚」を建国し、自らを陳王と名乗った。「張楚」は「大いなる楚」という意味 *1 だが、楚王ではなく陳王と名乗ったのは陳周辺しか支配できていないかららしい。

史記』秦始皇本紀によれば、この乱が起こった後に、各地で過酷な統治に苦しんでいた若者が呼応して郡県の長らを殺して反乱を起こしたとしているが、貧農が王になるという事態を見れば、反乱以前に秦帝国の統治能力は既にガタガタだったのではないかと想像する。

反乱の全国波及

以下に楚以外の地域への反乱の波及を書いていく(ただし韓の地域の言及は無かった)。

張楚国はわずか6ヶ月で潰されてしまうのだが、それでも陳勝(陳王)たちの活躍が目覚ましかったことは以下の記述で証明しているように思う。

ただし陳王はそれなりに戦略的に動こうとしていたが、彼の求心力はかなり弱かったようで、部下たちは勝手に動き回った。これに対して陳王は事後承認せざるを得なかった。

前209年8月、陳王は武臣 *2 を将軍として、邵騒を護軍に、張耳・陳余の2名を左右校尉にして、趙を攻撃させる。10城を攻略した後、説得工作により30城を戦わずして降伏させることに成功。武臣は邯鄲に入り趙王となった。陳王は激怒したがこれを処罰する力を持たず、しぶしぶ承認することにした。趙王は陳王からの秦への攻撃の命令を聞かずに自勢力の拡大を目指した。

8月、趙王は韓広 *3 に燕の地の攻略を指示した。

9月、旧燕国のかつての貴人や豪傑たちが韓広を燕王に押し立てる。趙王はこれを咎めるために燕に出兵したが返り討ちに遭い、燕王は独立した。

前208(二世2)年10月 ── 秦暦では10月で年が変わるので、10月から二世2年が始まる。当記事ではこれに従って、西暦の表記も変える ── 、狄の人、田儋(でんたん) *4 が狄県の県令を殺して斉王と名乗った。

田儋は陳王の軍勢と関係が全く無い状態で自立し、陳王が派遣した周巿(しゅうふつ) *5 は撃退された。

11月、魏王室の後裔である魏咎 *6 が魏王となる。10月に魏を平定していた周巿が陳王と交渉の末に成り立ったという経緯がある。周巿は魏の相となった。

江蘇省山東半島南部近辺

時期は不明だが、陳王が秦嘉 *7 らを数名を東方へ派遣する。彼らは東海郡守を郯(たん。現山東省の郯城県)で囲んだが、陳王はさらに武平君畔を将軍にしてここに派遣した。秦嘉は武平君に従うことを拒んで彼を殺し、大司馬(大将軍)を自称して陳王から事実上独立した(王とは自称しなかった)。

張楚国滅亡まで

ここでは、張楚国の対秦への戦いと同国の滅亡までを書く。

前209(二世元)年8月、呉広が仮王として、複数の将軍を与えて滎陽(けいよう。陳の北西)を攻撃する。滎陽は攻防の要地で李斯の息子李由が三川郡の長官として守っており、呉広らはこれを陥落させることができなかった。

周文が将軍として咸陽へと進軍する。函谷関(秦の畿内の東部との境界)を突破して9月には咸陽の近くの戯で秦軍と戦うが敗戦。11月まで戦闘を続けながら函谷関の東の澠池(べんち)まで敗走したがここで自刎する。

呉広の監督下にあった将軍・田臧は、周文の自刎の報を受け、呉広を陳王の命と偽って殺し、滎陽の軍を割いて秦軍を迎え撃ったが敗戦。田臧は戦死した。滎陽に残っていた軍も撃破された。

上記の軍勢を破った秦軍はさらなる張楚の軍勢を蹴散らして、いよいよ11月、本拠地の陳に攻め込んだ。12月に陥落。

陳王は王都・陳の西で対戦していたが、陳陥落後に転戦を続けている最中、自分の御者に殺された。これで張楚国は滅亡、陳勝呉広の乱は一応終わりとなる。

乱後の展開:鉅鹿の戦い

陳勝呉広の乱が鎮圧され、将軍・章邯を中心に秦軍は各地の残勢力の鎮圧を進めたが、この進軍が止まったのが鉅鹿の戦いだった。

少し手前から話を進める。

8月に武臣が趙王になったことは既に書いたが、11月に内紛により殺された。

趙王配下の校尉(武官)であった張耳・陳余はかつての趙の公子であった趙歇を王として擁立、信都を都とした。

話を秦軍に移す。章邯を中心とする秦軍は12月に張楚軍を滅ぼした後、新たな敵である項梁(項羽の叔父)らの軍勢と戦っていたが、前208(二世2)年9月、項梁を敗死させる。

章邯はこれを転機として、閏9月、今度は黄河を北上して趙の攻略へと向かう。

章邯は邯鄲で趙王・張耳・陳余に籠城されたら簡単には陥落できないと考え、先手を打って攻略し民を移して破壊した。やむなく趙王らは鉅鹿で籠城することにした。

秦軍は大軍をして鉅鹿を包囲して陥落寸前まで追い込んだが、援軍に駆けつけた項羽が秦軍を打ち破った(二世三(前207)年11月)。

この戦いが秦軍優勢と劣勢の転換点となるのだが、この続きは次回以降で書く。



*1:藤田氏/p84

*2:武臣 - Wikipedia

*3:韓広 - Wikipedia

*4:田タン - Wikipedia

*5:周フツ - Wikipediaによれば、巿(ふつ)は「一」と「巾」から成り、市(いち)は「亠」+「巾」から成る別の字である。

*6:魏咎 - Wikipedia

*7:秦嘉 (秦末) - Wikipedia