歴史の世界

秦代⑤:政策(5) 度量衡・車軌・文字の統一

前回からの続き。

度量衡・軌道・文字の統一の意義

これらの統一は中央集権化の一環である。

戦国時代では各国で国政改革により中央集権化が進められたが、これを中国全土で展開したのが始皇帝だ。

戦国の国政改革の代表は秦の「商鞅の変法」だが、戦国秦はこの変法を継承し続けた。そして始皇帝がやったことは基本的にこれのバージョンアップ版だ。

たとえば、商鞅が作らせた方形の升(マス)(容量 約200mm)が現存しているのだが、始皇帝はこれを標準器としてマスを作らせた(または配布した)。規格通りに作らなかった工人や管理できなかった官吏を罰する規定も設けられている。

規格統一によって役人たちの裁量権を減らすことが出来る。つまり裁量権既得権益)を減らすことは中央集権化には必須のことだ。

度量衡とは?

長さ(=度)と容積(=量)と重さ(=衡)。それを測る、ものさし・ます・はかり。

出典:度量衡 - Google 検索

度量衡は、穀物の計量と武器がもっとも厳格であるが、土木工事の測量、身長の測定(6尺という身長で大人と子どもを区別、子どもには法的能力がない)、傷害罪の傷口の測定(人の顔を噛み切った場合、傷の大きさ1寸四方、深さ半寸が基準になる)など、多面にわたる。

出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/p60

車軌

車軌とは両輪の間の幅のことだが、これを統一することは、道路にできる轍(わだち)を同一にするためだ。当時の道路は もちろん舗装されていなかったので、轍が残ることになる。

戦国時代は、他国から侵入してきた戦車その他の行軍を遅らせるために、わざと異なる車軌にしたという。

始皇帝は車軌を統一し、さらに首都咸陽に繋がる交通網を全国に張り巡らせ、整備を各地の役人に管理させた。「すべての道は咸陽に通じる」だ。

文字の統一

中央政府から地方への意思伝達をするために統一された文字が必要だった。

文字の統一であって、言語の統一ではない(現代中国でも国内に幾つもの言語が存在する)。文字は当時の末端の一般庶民にはほとんど縁のないもので、為政者層と役人が理解できればそれで良かった。役人もある程度 定式化された文書を読み書きできさえすればよかった。

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出典:【6月12日配信】皇帝たちの中国 第2回「皇帝は中国最大の資本家」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube

統一された書体を「小篆(しょうてん)」といい、西周代に作られた「大篆」を李斯らが簡略化して作った書体と言われている。

ただし、末端の役人が用いた書体は小篆をさらに簡略化した「隷書(れいしょ)」という書体だった。 *1

小篆は皇帝の命によって制定された国家の標準書体だから,皇帝の詔勅のような正式な文書に使われたが,小篆はもともと曲線が多く,書くのに時間がかかり,行政の現場ではかなり,不便な書体であった。そこで,小篆の字形の構造を簡単にし,曲線を直線にあらためて,より早く書けるように工夫した書体が隷書である。始皇帝の時代は,正式な文書には小篆が使われ,行政文書など普通に文字を書く時には隷書が使われるという状況であった。やがて次の漢になると隷書がますます普遍的に使われ,一方,小篆の方はほとんど使われなくなった。

出典:漢字 ― 古文・小篆/世界の文字

実際の業務に携わるのは、地元採用の官吏であり、かれらが秦の出身者であるか否かは採用の条件ではない。できるだけ多くの他国の人々を秦の地方行政の末端に取り込んでいくことが、秦という帝国の存立の基盤となる。劉邦は秦の出身ではないが、秦の亭長(村のち庵をつかさどる長)となっている。当然秦の文字を読み書きできたはずだ。劉邦に従った曹参は獄掾(ごくえん)、任敖(じんごう)は獄史[ともに刑務所の属吏]……であり、当然秦の文字で書かれた法律を理解し、秦の文字で文書を書くことができたはずだ。

出典:鶴間氏/p62




youtube動画《【6月12日配信】皇帝たちの中国 第2回「皇帝は中国最大の資本家」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube》は始皇帝の統一事業について宮脇淳子氏が説明している。とてもわかりやすい。

聞き手の田沼さんが封建制から郡県制への変化を廃藩置県に似ていると表現したのは面白い。