歴史の世界

戦国時代 (中国)⑫ 後期 秦・昭襄王の治世

中華統一を果たすのは秦王・政(のちの始皇帝)だが、政が王になるより前に秦の中華征服事業を止めることができる勢力は無くなっていた。この状況は始皇帝の三代前の秦王・昭襄王の治世で起こった。

今回は昭襄王の治世を中心に書く。

「中国の統一は始皇帝の力ではなかった」

紀元前278年におこなわれた楚への侵略では、楚の都の郢(えい)が陥落し、楚は東方へ遷都した。また、紀元前260年の趙への侵攻では、この時点で唯一秦に対抗しうる軍事力を持っていた趙が、長平の戦いで大敗した。これにより、先の斉の敗北とあわせて、秦に対抗できる国がなくなった。

こうした状況を背景に、秦の昭襄王(始皇帝の曽祖父。昭王とも)は紀元前255年(256年とも)に周王朝を滅ぼした。秦が周王朝に代わる新しい王朝になることを、行動をもって宣言したのである。

「中国をはじめて統一したのは誰か」という設問があれば、答えはもちろん「秦の始皇帝」である。しかし、始皇帝が一人の力で中国を統一したのではなく、むしろ始皇帝の即位(紀元前246年)以前に、秦による中国統一は、ほぼ決定していたのである。

出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/2009/p129

「中国の統一は始皇帝の力ではなかった」というのは上の本の第11章のタイトル。

古代中国の虚像と実像 (講談社現代新書)

古代中国の虚像と実像 (講談社現代新書)

引用に書かれていることは昭襄王(在位:前306-251年)の時期の出来事だ。昭襄王の治世では常に領土拡大戦争を繰り返していたが、斉の没落と名将・白起の登場で秦の一方的な攻勢が続いた。

昭襄王が死去した後にお決まりの後継者争いがあって中華統一は少し足踏みをした感はあるが、秦王・政(のちの始皇帝)が即位する頃には既に統一のお膳立ては済んでいた。

なお、昭襄王は(始皇帝が行った郡県制ではなく)周王朝の体制を踏襲した封建制で中華を治めようとした。

前256年に王前284年王赧(前314~256年)が崩じて周王朝が断絶すると、昭襄王は諸侯を来朝させ、前253年、雍(よう)において上帝を郊祀した。周に代わる王朝樹立を宣言し、秦を天子とする封建制を志向したものである。ところが、前251年に昭襄王が卒し、短命な孝文王(前250年)・荘襄王(前249~前247年)のあと、幼少の秦王政(始皇帝)が即位し秦の統一は先送りされる。秦王政は前238年に親政を開始するが、その翌年にはなお政王建(前264~221)・趙悼襄王(前244~前236)が来朝している。秦が他国の臣従を断念して武力統一に踏み切るのはそれ以降のことである。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p57(吉本道雅氏の筆)

秦帝国が郡県制に切り替えたのは李斯の提言によるというのが教科書的な説明。ただ吉本氏は「断念」という言葉を使っているので他の理由があるのかもしれない。

万里の長城(の一部)を築いたのも昭襄王だ。

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昭襄王の治世(在位:前306-前251年)

さて、ここまで簡単な時代の流れを書いたが、ここからは複数の人物を中心にした歴史を書いていく。

相国・魏冄(ぎぜん)

昭襄王の先代の武王が急逝したために後継者争いが起こった。まあ、急逝でなくてもお家騒動なんていつでもどこでも起こるものだが、この争いに勝ち残ったのが昭襄王だ。彼を王に擁立したのは魏冄(昭襄王の母・宣太后の弟)で、その後の王族の反乱を鎮圧したのも彼だった(このように魏冄が非凡の男だということは分かるが彼が政治の達人かどうかはよく分からなかった)。

魏冄は前295年に宰相になったが前293年に白起を将軍に登用したことで彼の地位が盤石になった。白起が連戦連勝して秦の版図を拡大したからだ。

『戦国策』秦策三によれば、魏冄は宣太后と華陽君(宣太后の弟)と政治を専横していたとされる。前276年には相国となり、秦では魏冄に並ぶものがいないほどの権勢を誇るようになった。彼は何度か罷免されるがその都度 宰相に復職して勢力を維持する。 (魏ゼン - Wikipedia

魏冄は宣太后の実子(昭襄王の弟)たち、すなわち涇陽君(公子巿)・高陵君(公子悝)を抱き込み(白起が奪取した領土を彼らに与えた)、昭襄王が簡単に処断することができかった。

魏冄は前276年には相国となった。相国は宰相の最上級の尊称のようなもので、中国の歴史上 権勢が最上級の人物が与えられる(という形式で名乗る)地位のこと。魏冄がそれだけの権勢を誇ったということだ。

昭襄王が魏冄を何度も罷免していることから二人の実権の奪い合いの駆け引きがあったのだと思われるが、この争いは范雎が登場することで終止符が打たれる。

宰相・范雎

前271年、魏冄は客卿の進言を聴き入れて斉を討った。これは自己の封邑である陶を広めるためで、斉の地を得て自身の領地に組み込んだ。

当時無職であった范雎 *1 は昭襄王に謁見を許された時にこの対斉戦争を批判した。

曰く「穣侯はいま韓や魏と結んで斉を討とうとしているが、これは間違いです(仮に勝って領土を奪ってもそれを保持することができないため)。それよりも遠く(趙・楚・斉)と交わり、近く(魏・韓)を攻めるべきです。そうすれば奪った領土は全て王のものとなり、更に進出することができます」と。これが遠交近攻策である。

出典:范雎 - Wikipedia

遠交近攻という言葉は范雎が出典とされる。遠交近攻は至極当たり前のこととは思うが、これを言わなければならなかったのは、魏冄が私欲のために遠方の斉と戦ったことが原因だった。

この進言を受け入れた昭襄王は、魏を攻めて領土を奪い、韓に対して圧迫をかけた。その成果に満足した昭襄王は、范雎を信任することが非常に厚くなった。そこで范雎は昭襄王に対して、穣侯たちを排除しなければ王権が危ういことを説いた。これに答えて昭襄王は太后を廃し、穣侯・華陽君・高陵君・涇陽君を函谷関の外へ追放した。

出典:范雎 - Wikipedia

范雎は魏冄のようには権勢を追求せずに頃合いを見て職を辞して隠居した。その後の秦は范雎の遠交近攻策を継続して着実に版図を広げていった。



*1:范雎の経歴は范雎 - Wikipediaを参照