歴史の世界

戦国時代 (中国)⑦ 楚・燕・趙・韓

戦国七雄のうち魏・斉・秦については書いたので、残りの楚・燕・趙・韓についてまとめて書いてみる。

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戦国七雄

出典:戦国時代 (中国) - Wikipedia *1

楚は春秋時代の晋を含む中原諸国に恐れられるほどの大国であり、戦国時代に入っても変わらず大国であった。楚恵王(前488~前429年)は蔡(安徽省寿県)(前447年)・杞(山東省安邱県)(前455)・莒(山東省莒県)(前431)を併合している*2

にもかかわらず楚が魏・斉・秦のように覇権を握れなかったのは国政改革ができなかったということらしい。

他の六国では、他国出身者を「客卿」などの要職に登用していたのに対し、楚では戦国時代を通じて令尹(れいいん、宰相)の就任者は大多数は王族であった。また、それに次ぐ司馬や莫敖(ばくごう)の位も、王族と王族から分かれた屈氏・昭氏・景氏が独占していた。

このため、王族が多すぎて下剋上がなかった楚では、氏族制がもっとも強く残有し、広大な国土と強大な国力をもちながら、君主の権力と国家の統制が弱体であった。

なかには悼王(在位、前401~前381年)のように、呉起呉子)を信任して、氏族制社会の解体を目指す国政改革を断行した王もいたが、悼王の死後、呉起は殺され、楚はふたたび氏族制に支えられた封建的な王族が散財する分裂的な状態に戻り、やがて秦に圧倒される。

出典:渡邉義浩/春秋戦国/歴史新書/2018/p108

中原に比べ人口が少なかったのも楚の弱点だったろう。*3

前334年、威王(在位:前340-329年)は越王無疆(むきょう)を攻め滅ぼし、淮河以南の広大な土地を領土にしたが、次代の懐王(前329-299年)は秦の宰相・張儀の策略にかかって王自ら捕虜になるほどの大敗を喫して壊滅的な状況に陥った。

戦国四君のひとり春申君が国の立て直しを図るが前238年に殺害された。前223年に秦によって滅ぼされる。

戦国時代の燕が注目される場面は、前284年、楽毅率いる五国連合軍が斉に大勝し王都臨淄を陥落させた頃だ。この時の王は昭王で名君だった。「隗より始めよ」で有名な郭隗を始めとして有能な人材を国外から集め、国政の立て直しを図った。楽毅が燕に仕えたのも昭王の頃からだ。

しかし、昭王が前279年に亡くなった後は時代の恵王が楽毅を追放し斉から奪取した領土を取り戻された。その後、燕は荊軻のエピソードくらいにしか登場しない。

趙が注目されたのは武霊王(在位:前326-298年)の代。

武霊王は紀元前307年、胡服騎射を取り入れる。胡服とは当時北方の遊牧民族が着ていたズボンのような服のことである。当時の中国では士大夫はゆったりした裾の長い服を着ており、戦時には戦車に乗って戦う戦士となったが、馬に乗るためにはこの服は甚だ不便であった。武霊王は北方の騎馬兵の強さに目をつけ自国にもこれを取り入れたいと考えた。その為には文明を象徴する戦車に乗る戦士であることを誇りとする部下達に、胡服を着させ、馬に直接またがる訓練を施す事が必要である。趙の国人達は強くこれに反発するが武霊王は強権的に実行させ、趙の騎馬兵は大きな威力を発揮し趙の勢力は拡大した。

出典:趙 (戦国) - Wikipedia

武霊王は次代の後継者争いの中で幽閉されて餓死したが、その後の趙は藺相如と廉頗、趙奢といった有能な家臣に支えられて秦の猛攻をなんとか防いでいた。しかし趙奢の息子の趙括は秦の名将・白起に長平の戦い(前260年)で大敗した。

紀元前375年に鄭を滅ぼしたものの、戦国時代の韓は七雄の中では最弱であり、常に西の秦からの侵攻に怯えていた。しかし申不害(? - 紀元前337年)を宰相に抜擢した釐侯の治世は国内も安定し、最盛期を築けた。次代宣恵王が紀元前323年に初めて王を名乗ったものの、申不害の死後は再び秦の侵攻に悩まされた。 そのような事態を憂慮した公子韓非はこの国を強くする方法を『韓非子』に著述した。しかし韓非の言説は母国では受け入れられず、皮肉なことに秦の始皇帝により実行され、韓を滅ぼす力となった。また韓は鄭国を送って秦に灌漑事業を行わせ、国力を疲弊させようとしたが発覚した。この工事で作られた水路はのちに鄭国渠と呼ばれ、中国古代3大水利施設の一つとなり、これもまた皮肉にも秦を豊かにさせる結果となった。

紀元前230年、首都新鄭を失陥し、六国の中で最も早く滅亡すると、秦は潁川郡と呼び改め統治下に置いた。

出典:韓 (戦国) - Wikipedia

  • 申不害は法家の一人に数えられ、彼のものと言われる「形名参同術」*4は『韓非子』に採用されている。



*1:著作者:Philg88

*2:国史 上/昭和堂/2016/p48(吉本道雅氏の筆)

*3:華中・華南の人口が増加するのは南宋以降

*4:形名参同(ケイメイサンドウ)とは - コトバンク参照