歴史の世界

中国文明:二里頭文化② なぜ洛陽盆地は生き残れたのか

記事「後期新石器時代 その8 新石器時代末期の終焉」で書いたように、新石器時代の末期に地球規模の気候変動(寒冷・乾燥化)が起こり、中国本土の各地の文化が崩壊・衰退した。

そんな中で洛陽盆地を含む黄河中流域にあった王湾3期文化(中原龍山文化の中の一つ)だけが生き残った(二里頭遺跡の集落は王湾3期文化圏の中で発展していった)。

なぜ洛陽盆地を含む王湾3期文化は生き残れたのか?

この記事では洛陽盆地とその一周り大きな地域の王湾3期文化について書いていく。

王湾3期文化から二里頭文化へ

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出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p296

中原龍山文化は上図のように分けることができる。

この中で陶寺文化の陶寺遺跡は、中原龍山文化の中で最も大きな大集落であったが、新石器時代末期あたりに戦争によって破壊され、衰退した。

陶寺文化繁栄期の王湾3期文化は中心集落を持たず、小集落が分散していたが、新石器時代末期から青銅器時代の変わり目(国家・王朝の誕生期)に中心集落ができるようになった。

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出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p124

+図中の「密新群」は「新密群」の誤記だと思われる。

上図のように二里頭文化期(青銅器時代の最初の文化)において洛陽盆地を中心に集落が集中するようになった。

ただし、宮本一夫氏によれば(宮本氏/p300-303)洛陽盆地(二里頭遺跡)が繁栄する前に河南省新密市にある新砦遺跡が中心集落になり、潁河・北汝河(単に汝河とも言う)流域の集落を服属させていた。*1

この短期間の流動は気候変動による新石器時代末期の各地域の文化の崩壊*2と関係があるかもしれない。

つまり、各地で崩壊した文化圏(具体的には山東龍山文化、良渚文化、石家河文化など)から押し寄せてきた人々がこの地域を揺り動かしたのかもしれない。

なぜ、洛陽盆地は発展できたのか

まず、なぜ洛陽盆地は気候変動(寒冷・乾燥化)の中で生き残れることができたのか

西江清高氏の推測によれば、黄河流域・長江流域が「単作型の農耕経済(それぞれアワ・キビ農耕、稲作農耕)だったのに対して、王湾3期文化は両方の農耕経済が重なる地域で、多様な栽培形態が可能だった結果だ、とする。(世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p69-70(西江清高氏の筆) )

王湾3期文化は黄河中流域の南部に位置していて華北と華中の植生が重なっていた。上の推測に付け加えるのならば、狩猟採集の面においても多様な食料資源が存在したのではないだろうか。

西江氏は上のような農耕経済がどのように中原王朝を支える生産の基盤となりえたのかについては「資料の増加をまって清朝に検討すべき問題」として、その後に次のように書いている。

その場合少なくとも、多様な食糧生産のあり方が国家的に管理されるようになる時、国家のシステムのなかに、その多様性を取り込んでいくための従来にはなかった複雑な仕組みが用意されたであろう、ということは想定できる。

交通・交流の交差点という側面も、生態環境・自然地域の交錯地帯という側面も、見方を変えればその地が地域間関係においても自然地域においても、周縁に位置していたことを意味する。その周縁の地が中心地へと転化する時、従来は関係が希薄であった複数の地域が新たな中心を介して結合され、結果として従来にない大きな関係圏が形成されたと考えることができる。さらに、そうして生まれた地域間関係の中心は、重層的な文化と社会の成り立ちをもったと思われ、そこに従来にはなかった複雑な社会が生成される条件があったと考えられるのである。中原王朝の形成には、こうした背景があったのではないだろうか。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p70(西江清高氏の筆)

気候変動の動揺により、各地の人々がこの地に押し寄せてきたことは、二里頭文化の中身によって容易に想像できることだ。以下のようなものが代表例。

+玉器文化→良渚文化。 +土器の副葬による階級づけ→山東龍山文化*3 +占卜→長城地帯

文化だけを取り入れたと考えることもできるが、他地域の文化が衰退していることと考え合わせると、やはり文化と一緒に人々も移ってきたのだと思われる。