歴史の世界

中国文明:殷王朝② 前期

前回も書いた通り、『史記』などに書かれている殷建国の伝承(湯王が暴君桀王を倒す話)はフィクションである。殷建国の時期は文字資料が無いため本当は何があったのかは分からないので、考古学の資料から推測するしかない。

建国/二里岡遺跡→鄭州商城遺跡

鄭州商城の建設をもって殷王朝は建国されたということになっている。

殷王朝の前身となる勢力の話は前回書いた。この勢力が黄河下流の方から上流へ進出して鄭州に都市を建設した。これが鄭州商城(二里岡遺跡)。

二里岡遺跡は1953年に鄭州市二里岡で発見されたのだが、その後1955-56年の調査により周囲約7kmの長方形の城壁が確認され、西江清高氏によれば、二里岡遺跡は鄭州商城遺跡と呼ばれるようになった*1。ただし、宮本一夫氏は『中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)』(講談社/2005年)で「二里岡遺跡」という呼称を使用している。

副都・偃師商城の建設

先王朝の王都(二里頭遺跡)のわずか(南西)約6kmのところに偃師商城の遺跡がある。この都市は早くも鄭州商城と同時期に建設された。

その理由は以下のように考えられている。

殷の人々は新たな王朝を立てたものの、前王朝の人々の方が政治知識や青銅器の製作技術などを豊富に持っていたため、支配下に組み込むことが必要であった。しかし、もとは王朝を維持するだけの軍事力をもっていたのであるから、警戒することも必要である。そこで、首都である二里岡遺跡(二里頭遺跡の東70キロメートル)だけではなく、二里頭遺跡のすぐ近くに副都である偃師商城も建設し、前王朝の人々を強く支配しようとしたのである。

出典:落合淳思/殷/中公新書/2015/p23

以上は、次代の周王朝が殷を滅ぼした後に殷の勢力圏に副都を建設したことを元にした推測だ(周の王都は渭河流域(漢中)にある鎬京)。

ちなみに、二里頭遺跡が廃絶されたのは前1520年頃。鄭州商城が建設された、つまり殷王朝が建国されたのは前1600年または前1580年頃。偃師商城も同時代だとされている。

前期の勢力圏

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出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p345

前期の勢力は二里頭文化の文化圏を一周り大きくした程度だ。

宮本氏は前期の状況を畿内(王朝の直接支配権)と畿外(間接的な影響圏)に分けて以下のように説明する。

畿内においては、殷王朝の政治的・経済的拠点である城郭が築造されるのである。すでに述べた東下馮、垣曲、府城である。これらは中条山脈に産する銅・鉛鉱石や塩の獲得、さらにはその運搬の基点と考えられる地域に立地している。かつて二里頭文化の人々が移住した場所であった。

一方、盤龍城は畿外である長江中流域に位置し、近隣には湖北省の大冶市銅緑山遺跡などの銅・鉛鉱山が存在し、盤龍山はこうした地域から算出する原材料の集散地であった。まさに殷王朝の前線基地であったのである。盤龍城遺跡には鋳造工房があるが、この工房は青銅彝器(いき)を製造した痕跡はなく、大半が銅や鉛あるいは錫のインゴットを制作していたのではないかと想像される。このような城郭には殷人たちが移住し、青銅資源などの原材料を獲得し、王都へ運ぶといった基点であって、殷王朝の直轄地のようなものであったのであろう。

畿外は、このような服属する地域首長と殷王朝の前線基地のような城郭からなる点的支配領域であったのである。そして点的支配の拠点である城郭には、青銅彝器が副葬された貴族墓が発見されている。おそらくは王朝中心から派遣された殷人貴族であり、礼制の要である青銅彝器が殷王から再分配されたのである。

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p347

注意すべきところは、線で囲った地域全土を支配しているわけではなく、「前線基地のような城郭からなる点的支配」であるというところ。

上の引用の続きとして宮本氏は、畿外の外側の周辺地域からも資源を獲得するための交流(四川省など)があり、周辺地域は殷王朝から刺激を受けた形で前期以降 青銅器の生産を開始した、としている。

階層システム

宮本氏によれば*2、殷王朝における階層の表示は二里頭文化から継承した青銅彝器(いき)と山東龍山文化の棺槨構造にあった*3。簡単に言うと副葬品と墓の豪華さによって身分の違いを表した。

階層システムにおいての二里頭文化と殷王朝の違いは、二里頭文化のそれは淮河上流など狭い範囲にしか広まらなかったが、殷王朝のそれは上述の盤龍城や黄河下流の河北省藁城県台西遺跡などの遠隔地域にまで広がっていることだ。これは政治支配の広がりを示している。(p334)

もう一つ宮本氏が指摘する点は階層システムとしての棺槨構造を採用したことだ。

殷王朝は……多元的な精神基盤を吸収することにより、より広範な地域文化や人間集団の管理が可能になったということができるのである。すなわち、領域支配が可能になる背景は、さまざまな地域に固有にあった精神基盤を吸収し、さらに上位に新たな精神基盤による社会秩序を形成せしめる必要性があったのである。

出典:宮本氏/p335

他地域の階層システムを採用して、その地域の上位に殷王朝を置くことによってその地域を支配するという方法。

つまり、棺槨構造を採用したのはその階層システムの源流である山東半島地域を支配するためだった。

このようなやり方(他地域の文化を吸収するようなこと)は、殷王朝に始まったことではなく、二里頭文化でも行われていたし、それ以前からもあっただろう。

中国以外でも似たようなことがある。例えば古代のメソポタミア・エジプトなどでは周囲の集落の守護神の上位に王都の守護神を置いた。



*1:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p74(西江清高氏の筆)

*2:p333

*3:山東龍山文化の伝統は岳石文化に残っていたのだろう