中国本土の各地で繁栄した後期新石器時代も終焉が訪れる。
中国本土に何が起こったのかを書いていこう。
後期新石器時代に「文明」は誕生した?
ここでは、古いが有名な都市(化)の指標(要素)であるゴードン・チャイルド氏の10項目(Childe 1950: 9–1 6)*1を見てみよう。
中国社会科学院考古研究所の王巍所長は、「良渚や陶寺等の都、大型宮殿の跡地、大規模な墓が発見されていることから、一部の文化と社会が発達した地域では、夏王朝より前から国家が形成されており、文明史が始まっていたことが分かる」と主張している*2。
仮に「国家」と呼んだとしても、それは王家(首長)の家政に過ぎなかっただろう。しかし良渚遺跡や陶寺遺跡の中身を見ると、文明の指標(要素)がほぼ全部有る。サインのような抽象的な記号(未解読らしい)はあるが文字というにはびみょうなところだ。陶寺遺跡には暦と天文観測の場がある。あとは「奢侈品や原材料の長距離交易への依存」が欠落している。
まあ、すべての項目をクリアしなければ文明ではにということでも無いので、「中国文明」は後期新石器時代のあいだに誕生した」といっても良いと思う。
後述する地球規模の気候変動(寒冷・乾燥化)が無ければ、各地域で独自の国家が誕生して群雄割拠の時代になったかもしれない。
新石器時代の崩壊
以上のように後期新石器時代において文明段階まで来たわけだが、ここで中国本土全体に天災が訪れる。
良渚文化の記事ですでに紹介したが、4200年前(前2200年)前後に中国本土全体どころか地球規模の寒冷化・乾燥化が起こった。
この寒冷化・乾燥化に影響を受けたと思われる事例をいくつか挙げてみよう。
中国本土では以下の文化が消滅した。
図3 本研究で明らかになったコア採取地の温度変動と、長江デルタの文明変遷。
中村慎一氏が良渚文化の崩壊について寒冷・乾燥化以外の原因を提示しているように*8、中国本土の新石器時代末期の終わりのすべての原因を寒冷・乾燥化に求めることはできないが、これが最も大きな原因と考えられる。
「なぜ中原だけが発展することはできたのか」は別の記事で書く
「中原」の中でも「衰退・崩壊」のは一部だけだ。上記のように中原龍山文化西部(渭河流域)の客省荘第二期文化は衰退する。
発展した地域は洛陽-鄭州区域で、この地域の発展から初期国家(二里頭文化)が誕生して、中国本土は新しい歴史の時代が始まる。
「なぜ中原だけが発展することはできたのか」は別の記事で書く。
*1:小泉龍人/都市論再考─古代西アジアの都市化議論を検証する─/2013(PDF )
*2:中国5000年の歴史、考古学により明かされる成り立ち--人民網日本語版--人民日報 2012年7月17日
*3:4.2 kiloyear event - Wikipedia
*4:4.2 kiloyear event - Wikipedia
*5:三内丸山遺跡、集落存続は5900~4200年前 2018年9月12日 - Web東奥 、新領域:三内丸山遺跡の盛衰と環境変化 ?過去の温暖期から将来の温暖化を考える/川幡穂高/東京大学大学院新領域創成科学研究科 自然環境学専攻 ・東京大学海洋研究所
*6:以上、世界歴史体系 中国史1 先史~後漢/山川出版社/2003/p56(西江清高氏の筆)参照
*7:「Eastern China blank relief map - File:Eastern China blank relief map.svg - Wikimedia Commons」の地図を使用。
wikipediaの諸文化のページを参考にした。
「私見!中国人(漢民族)の歴史 ( 歴史 ) - とりとめなき飲み屋 - Yahoo!ブログ」というブログ記事も参考になった。
*8:記事「良渚文化#良渚文化の崩壊について」参照