前回より続き。
龍山文化がどういうものかは前回に書いた。
今夏は中原龍山文化。「中原(ちゅうげん)」の範囲は中国史の各時代によって異なるのだが、新石器時代は黄河中流域を指す。
中原龍山文化
前回に書いた通り、中原龍山文化というのは「中原(黄河中流域)における(本家の)山東龍山文化に併行する時代(龍山文化期、龍山時代)の文化群の総称だ」。
中原龍山文化圏の個々の地域は前の仰韶文化を継承していたが、以上のような状況で山東半島からの龍山文化を一部受け入れたか、あるいは黒陶技術を受け入れた以外は名ばかりの龍山文化だった、と思われる。
西江清高氏は以下のように説明する。
中原地区の龍山文化期には、同時期の長江中・下流域や山東地区のような大きな地域的社会の統合は成立していなかったと考えられる。確かに山西南部の陶寺類型のように統合度が高い社会も生まれていたが、のちの二里頭文化の母体となる嵩山南北の王湾三期文化や東南部の王油坊類型のように、顕著な中心集落がなく、分節的な小地域単位が競合するような地域もあり、中原地区にはさまざまな地域システムが並び立っていた。
上のような説明に対して、宮本一夫氏は異論を唱える。
宮本氏は中原龍山文化の中期に山西南部の陶寺遺跡が中原の中心集落であったと主張する。
陶寺遺跡の中期は城壁は南北1500m、東西1800mという新石器時代の最大の規模を誇る(宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p373)。
大きさだけでなく、中身も他地域に引けを取らない。
城壁の内部は宮殿区・貴族層居住区・一般民居住区・(可能性として)手工業工房区・墓地といった区画に分かれれている。さらに祭祀遺構は天文観測が為されていたことが認められている。これは暦を首長が直接管理していたことを表している。
宮本氏は「このように機能文化した集落構造は、基本的に殷周社会と同じものである。こうした段階を初期国家段階と呼ぶ研究者も早晩出現するであろう」と書いて、陶寺遺跡が堯(伝説の三皇五帝の一人)の所在地とする説を紹介している。(以上、p258-259参照)。
ネット検索すると以下のような記事があった。
中国社会科学院はこのほど北京国務院プレスセンターで、山西省臨汾市襄汾県・陶寺遺跡の発掘成果に関する記者会見を開き、発掘調査の重大な収穫を発表した。中国社会科学院考古研究所の王巍所長は、「陶寺遺跡は『堯の都』であったと推定される。堯舜時代はもはや伝説ではなく、確実な史実によって証明された」と述べた。央広網が伝えた。[以下略]
引用の後は宮本氏が書いていた内容とほぼ同じだ。
さて、この大規模な囲壁集落(宮本氏は城址集落と呼ぶ)も中原龍山文化の後期に入る頃に、凄惨な戦闘によって破壊され、集落は衰退した。(p259-260)
宮本市の主張によると、このあと中原の「中心集落」は新砦集落(鄭州市)に移り(初期国家誕生直前期)、そのあとに二里頭集落(洛陽市)に移る(初期国家誕生期)。(p302)
楽器と犠牲
楽器と犠牲は中原龍山文化の特徴である。
楽器
陶寺遺跡でも副葬品によって階層化が認められるが、副葬品は山東龍山文化のような土器ではなく「楽器」だった。ただし威信財(ステータスシンボル)となる楽器は首長のみである。
この楽器は神を祀る祭礼具の一つであり、殷周時代の祭礼(祭祀儀礼)が陶寺墓地に求められる。(宮本氏/280-282)
犠牲
中原地区の独特の祭祀儀礼としてイヌやブタを土坑に埋葬するという「農耕祭祀」というものがあった。土坑の底にイヌ/ブタを置きその上にアワを堆積させて硬い土で塞ぐというものだ。このような祭祀は新石器時代前期からあって他地域にも広がり、動物の種類も変化していったが、動物犠牲が絶えず盛んだったのは中原地区だった。
中原龍山文化期ではさらに動物のみならず、人をも犠牲とする祭祀が行われた。
例えば、河南省登封県王城崗遺跡のような城址遺跡では、建物を建設するに際して、奠基坑(てんきこう)として人の犠牲坑が形成される。このような人の犠牲はとりわけ中原地域である黄河中流域に新石器時代後期に発達する。犠牲祭祀がが集団の結集力を維持し、さらに発展させるための精神基盤を形成していたものと思われる。
動物犠牲が農耕祭祀であるならば、人の犠牲は人間集団をまとめる社会的な祭礼であった。こうした動物犠牲や人の犠牲は、後にとりわけ殷代社会で発達し、動物犠牲も周代社会のの基本的な祭祀として存続していく。
出典:宮本氏/p284