今回は長江中流域の文化について書く。
屈家嶺文化(前3000年紀前半)
大渓文化を継承して栄えた文化。
この文化のあいだに、農作物の生産向上と人口増加を背景に分業化が進んだ。陶器においては、伝統的な彩文土器から 轆轤(ろくろ)を使用して定形化と量産化が見られる*1。紡錘においては、すでに大渓文化より始まっていたが、より小型化した紡錘車が出現して、より紡径の小さい糸を生産することができ、目の細い布をおることができるようになった*2。
ただし階層化に関しては、同時代の大汶口文化(黄河下流域)や良渚文化(長江下流域)に比べて進行が遅かったようだ。墓地の遺物を見ると階層化は明確と言えるほどではなかったようだ*3。
石家河文化(前3000年紀後半)
屈家嶺文化を継承して起こる。
石家河文化段階の玉器は、山東龍山文化や良渚文化の文様意匠やシンボリズムの影響を受けたものであり、この地域独自の玉器生産を行っている。したがって、石家河文化段階になって初めて固有の玉器を必要とする社会に達したことを注目すべきである。
出典:宮本氏/p172
首長墓もこの頃になってようやく登場する(p171)。
標式遺跡である石家河遺跡の囲壁内部の鄧家湾で5000点に及ぶ人物や動物を象(かたど)った土製品が、三房湾では数万個とも数十万個ともいわれる膨大な数の紅陶杯が狭い範囲から出土している。
紅陶杯は飲酒と関係する祭祀用器とも考えられ、これらの土製品を用いて、この地で大勢が参集して規模の大きな祭祀儀礼がとりおこなわれていたことを強く示唆している。人物や動物をかたどった土製品は、石家河文化の他の多くの遺跡でも出土していて、その流布の状況は石家河文化の江漢平原に、石家河を中心として系列化された祭祀システムががいきわたっていたことをうかがわせる。
江漢平原は、長江と漢江による堆積作用によって形成される沖積平野。複数の河川が縦横に流れ、300余りの湖が散見し、長江中下流平原の一部となる。(江漢平原 - Wikipedia )
出典:宮本氏/p168
出典:宮本氏/p171
囲壁集落
長江中流域の中心集落に見られる囲壁は、先にも指摘したようにもともと集落周囲における水稲農耕と関わったであろう環濠と、その関連水利施設の副産物として生まれたことが推測される。江漢平原の囲壁集落が、華北と比べても早くに出現した背景には、そうした水郷的環境への適応と、初期の水稲耕作の発展に結びついた水利の問題があったのではないだろうか。やがて屈家嶺文化期の前3000年紀に入るころから、大量の酒器や家畜のブタの骨の出土に示唆されるような稲作を主体とした経済の更なる進展を背景として、社会的環境の変化が著しくなり、防御を主たる目的とした高大な城壁がつくられるようになったと考えられる。
出典:西江氏/p48-49