前回の続き。
今回は「反」の理論。
「反」の理論
前回 引用したものの中から再び引用する。「反」を説明する文章。
(あるものを)収縮させようと思えば、まず張りつめておかなければならない。弱めようと思えば、まず強めておかなければならない。衰えさせようと思えば、まず勢いよくさせておかなければならない。奪いとろうと思えば、まず与えておかなければならない。これが「明(ひかり)を微(かす)かにすること」とよばれる(道徳経:第36章)。
- 『道徳経』=『老子』
つまり反発・反作用を使って思い通りの状況を作るという理論(?)だ。
「反」の理論は「道」と直接的な関係にある。
活気に満ちたものにも、その衰えのときがある。これ(粗暴)は「道」に反することとよばれる。「道」に反することは、すぐに終わってしまう(道徳経:第30章)。(p102)
ユアン氏は《「反」は、物事が一極にふれるとすぐに反対の方向に向かうという道(タオ)の動きと合致している》と書いている。
「道」は法則・秩序である。
法則と違う動きをすると反作用が起こって引き戻される。秩序に違反すれば罰を受けた後に秩序に戻るように強制される。これが「反」の理論だ。
では何故「衰えさせようと思えば、まず勢いよくさせておかなければならない。奪いとろうと思えば、まず与えておかなければならない」のか?
それは「道」から大きく逸脱させることによって反動を大きくさせて、その反動の力を以って敵を破滅させるためだ。
卑近の例を出せば、水風船を割るために より高いところから落とすようなものだ。物理法則で言えば位置エネルギーと運動エネルギーの話。
「反」の理論と「道」
「反」の理論を使うために、まず何をするべきか。
まずは引用。
「ねじ曲げられるものが完全に残る」。まっすぐであるためには、身をかがめよ。いっぱいになるには、くぼみがあるべきだ。(衣服の)ぼろぼろになったのが、新しくなるのだ。少ししかもたない人は、もっと多く得るだろうし、たくさんもつ人は、思いなやむばかりだ。それゆえに聖人は、(太初の)「一」をしっかり握り、天下のあらゆるものの規範となる(道徳経:第22章)。(p104)
「(衣服の)ぼろぼろになったのが、新しくなる」はネガティブなイメージからポジティブなイメージの転換を表し、「たくさんもつ人は、思いなやむばかりだ」は その逆を表す。
ユアン氏が「反」の理論の例として上の文章を引用したということは、この理論が戦略(軍事・政治)レベルだけでなく、日常レベルの話でも通用するものだということだろう。
つまり「反動を大きくさせて、その反動の力を以って敵を破滅させる」だけではなく、日常の中で普段の生活(=道)から逸脱した状況から戻ることも「反」の理論に含まれるということになる。
『老子』の中の「聖人」とは《「道」を体得した者(為政者)》といった意味になる。《(太初の)「一」》とは「道」のことだから「一」をしっかり握るとは「道」を把握するということで、上の文章の場合は「反」の理論を熟知しているという意味になる。
そして《聖人は、……、天下のあらゆるものの規範となる》の意味は「道」を体得した(そして「反」の理論を充分に理解した)為政者は天下(全中国)の王となる、となる。
「反」の理論を使うためには、まず「道」(法則・秩序)を充分に把握することが重要となることが分かる。
「反」の理論と「柔弱」
いきなり「柔弱」という言葉が出てきた。「反」の理論に関係する用語。
あともどりするのが「道」の動き方である。弱さが「道」の働きである(道徳経:第40章)。(p103)
「あともどりする」は「反」の理論を表している。「弱さ」が柔弱のことだ。
つまり「反」の理論を使いこなすために「柔弱」という方策(スキーム)が必要になってくる(p103)、ということ。
柔弱・弱さについては『老子』に多く書かれている。
一つ引用。
天下において、水ほど柔らかくしなやかなものはない。しかし、それが堅く手ごわいものを攻撃すると、それに勝てるものはない。ほかにその代わりになるものがないからである。しなやかなものが手ごわいものを負かし、柔らかいものが堅いものを負かすことは、すべての人が知っていることであるが、これを実行できる人はいない(道徳経:第78章)。(p112)
これだけでは分からない。「柔弱」を説明するためには「勢」と「形」の理解が必要だ。
「柔弱」と「勢」と「形」
『老子』を戦略書として読む場合の「柔弱」とは何か?
ユアン氏は『老子』の「反」の理論と「柔弱」と『孫子』の「勢」と「形」が関連していることを書いている。
「形」「勢」を簡単に書くと
- 「形」は適切な状況を作り出すことであり、
- 「勢」はつくり出される戦略的優位のことだ。(p106)
つまり上述の「位置エネルギー」を形成された状態が「形」で
「位置エネルギー」が「運動エネルギー」へ転換された運動・勢いのことを指している。
しかし、「弱者が強者に対して勝利するための方法」を課題とする『老子』の編集者たちに重大な問題が発生する。
もしアクター自身が弱ければ、そもそも自らにとって好ましい状況[つまり「形」--引用者]がをつくり上げるための資源や力を初めから欠いていたり、効果を発揮するに足りる「勢」を貯めることができない、ということにもなりかねないからだ。そのため、『道徳経』の著者たちは、まずこの問題を解決する必要に迫られたのである。(p113)
そこで編み出した答えが、「反」の理論であり、「柔弱」だった。
つまりは、こちらが自ら「勢」「形」を作り出すのではなく、敵をコントロールして敵 自ら破滅する道に向かわせるように仕向けることだ。
この考えは基本的には『孫子』の詭道と同じだ。ただし「道」(=法則・基準)の考えを使って以下のように掘り下げている。
弱者が常に「勢」を活用できるわけではないという事実に気づいた老子は、流れ落ちる水のように、意図的につくり出す必要がなく、自動的に継続して発展する「自然の勢い」というものがあるとしている。この自然の勢いは、その傾向をさらに助長させることによって促進できるという。たとえば孫子は「怒りたけっているものは撹乱し、謙虚なものは驕りたかぶらせ」と述べているが、軍事的な面から言えば、勝利の条件が整ったとしても、それを実現するためにはやはり軍隊を戦わせる必要が出てくる。ところが老子は、「自然の勢いはある頂点に達すると逆戻りする」という考えから、敵の自滅を待つことを提案している。
活気に満ちたものにも、その衰えのときがある。これ(粗暴)は「道」に反することとよばれる。「道」に反することは、すぎに終わってしまう(道徳経:第30章)。
武器があまりに強(かた)ければ勝つことがないであろうし、強(かた)い質の木は折れる(道徳経:第76章)。
この文は、老子の「反」の理論を構成している。つまり「あともどりするのが『道』の動き方である。弱さが『道』のはたらきである」(道徳経:第40章)ということだ。この柔らかさが重要なのは、これによって成熟したり極限に至って「反転」してしまうことを阻止し、敵に柔軟性において勝るチャンスを大きくするからだ。(p114)
「道」から大きく逸脱するものは、反作用によって破滅する。これが「反」の理論。
そして柔らかさ(柔弱)が重要なのは、《これによって成熟したり極限に至って「反転」してしまうことを阻止し、敵に柔軟性において勝るチャンスを大きくするからだ。》
つまり敵を(基準(=道)から大きく逸脱させるほど)堅強にさせることによって破滅させる一方で、自分はそれを自重して柔弱に保って破滅しないように心がけることだ。
人々は強くなることや堅くすることにポジティブな価値を置くが、行き過ぎれば それは破滅を招く。これは『老子』の「足るを知る」(第33章)や「無為」(第63章)に通じる考え方だ。
「反」の理論と「無為」と「有為」
以前の記事で《老子(「無為」について①--「無為」と「有為」の境界)》というものがある。
そこで書いたことは簡単に言えば、「有為」とは「大きな事業(大難事)に取り組むこと」、「無為」には「小事」もカウントされる。
「有為」すなわち大事業は政治行政にとっては普段の公務(=道)から逸脱するものであり、庶民にとっては日常(=道)から大きく逸脱するものである。よって「反」の理論が働き、破滅する可能性が高くなる。
聖人(「道」を体得した為政者)が「無為」に徹するのは、「有為」をした結果 「反」の理論が働いて破滅する(あるいは敵国に破滅するように仕向けられる)ことを避けるためだ。
第63章の一部。
[書き下し文]
難(かた)きをその易(やす)きに図り、大をその細(さい)に為す。
天下の難きは易きより作り、天下の大はその細より作る。
是を以って聖人は終(つい)に大を為さず、故に能くその大を成す。
それ軽諾は必ず信寡(すくな)く、易きこと多ければ必ず難きこと多し。
是を以って聖人は猶(なお)これを難しとす。
故に終に難きことなし。[中略][現代語訳]
いかなる困難も容易なことから生じ、いかなる大事も些細なことから始まる。
「道」を体得した人物は、はじめから大事を成し遂げようとしない。
だから成し遂げることができるのだ。
そもそも安請け合いは不信のもと、容易なことには困難がつきまとう。
「道」を体得した人物は、どんな容易なことでも困難を覚悟してかかる。
だから、壁に突き当たることもない。
「難き」「大」が「有為」で、「易き」「細」が「無為」。
「有為」を為せば「反」の理論が待ち構えているので、慎重のもとに「無為」に徹する。
その結果、壁に突き当たることなく大事を成すことができる。これが『老子』の考え方である。