大陸封鎖令
1806年11月、ナポレオンはわざわざベルリンに入城して大陸封鎖令を発布した(ベルリン勅令ともいう)。
1806年、ナポレオンがベルリンで、ヨーロッパの征服地に対して出した命令で、イギリスとの貿易を禁止したもの。イギリスを経済封鎖し、孤立化・弱体化を狙うとともに、フランスの輸出振興を図った。[中略]
大陸封鎖令は突然出されたものではなく、イギリスが1806年5月16日に北海ならびに大陸沿岸の諸港に対する封鎖宣言を出したことに対する対抗措置として出されたものである。お互いに敵国への上陸作戦はできないと判断しているフランスとイギリスが互いの商業上の利益に打撃を与えることで屈服させようという、「商業戦争」の宣戦布告を行ったと言える。また、ナポレオンには単にイギリスを屈服させてヨーロッパの覇権を握ろうと言うだけでなく、イギリス工業製品をヨーロッパ大陸から追い出し、代わりに市場を独占し、フランスの産業を成長させようという意図もあったと考えられている。
ということで、フランス(というかナポレオン)とイギリスの、ヨーロッパ全土を賭けた戦いの一幕がこの勅令だ。そして大陸封鎖はナポレオン戦争が終わるまで続くことになる。
引用にある経済に対する封鎖令の正当化は保護貿易であり、重商主義である。重商主義がダメなことは当時以前にも言われていてアダム・スミスの『国富論』は1776年に世に出ていたが、資本主義経済が実際の経済の中で正しいと証明されるのはナポレオン戦争直後からだ。
ただし、現在(ウクライナ・ロシア戦争中<2025.06>)のような状況になると、("見えざる神の手に任せよ"的な)資本主義は一歩後退し、保護主義的な要素がどうしても出てくる。
さて、大陸封鎖令についての詳細は上の引用元に書いてあるので詳しくはそちらで。
ティルジットの和約(普露の敗北)
イエナの戦い(1806年10月)に敗北した普露は、それでも抵抗してナポレオンに挑んだが、アイラウの戦い(1807年2月)、フリートラントの戦い(同6月)に敗れ、事実上ナポレオンに降った。その講和条約がティルジットの和約(1807年7月)だ。
ナポレオンはプロイセンから割譲させた領土にヴェストファーレン王国を建国し、弟のジェローム・ボナパルトを王に即位させた。さらに、ポーランドを独立させてワルシャワ公国を建国した。これによってナポレオンは中欧および東欧における覇権を獲得した。
イエナの戦いが始まる前に第四次対仏大同盟が普露を中心として結成されたが、この和約で同盟は解消された。
オランダ支配
すでにフランス革命戦争でオランダはフランスの支配下に入っていた。フランス革命政権は、あれだけグダグダだったにもかかわらず、対外戦争(対仏大同盟との戦争)では勝ち続けていた。その中で1795年、オランダからオラニエ家が追放され、バタヴィア共和国という衛星国が出来上がった。
1796年6月、ナポレオンはこのバタヴィア共和国を潰して、弟ルイ・ボナパルトを国王とするオランダ王国にした。しかし、1810年にルイがナポレオンと対立したために退位させられ、結局、オランダはフランスの直轄領となった。
イタリア支配
イタリアは、まだひとかたまりの国になっていなかったが、多くの地域(都市国家?)が対仏大同盟に参加していた。そしてフランス革命戦争での敗戦後、多くの地域がフランスの支配下に置かれる。ナポレオンのクーデタが行われていた時は混乱状態になったが、皇帝に就いた後に再侵略してきた。
1799年に権力を掌握したナポレオンは、1800年に再びアルプスを越えてイタリアに侵攻、マレンゴの戦いでオーストリア軍を退却させ、翌1801年のリュネヴィルの和約でオーストリアはイタリアから排除された。以後15年間のイタリアは、シチリア島とサルデーニャ島を除き、フランスの分割支配を受けることとなった。
出典:イタリア<世界史の窓
時系列順に書こうと努めてたんだが、こんなに早く侵略されてたんだね。
詳細は引用元で。
スペイン・ポルトガル・第五次対仏大同盟
1807年11月、ナポレオン軍はポルトガルに侵攻、さらに翌1808年にはスペインに侵攻(あわせて半島戦争という)。イギリスはウェリントンをスペインに派遣、スペインの反乱(スペイン独立戦争)を支援した。このとき、1809年にイギリス・オーストリア間で結成されたものを第5回対仏大同盟とする場合もある。これは同年7月のワグラムの戦いでナポレオン軍がオーストリア軍を破り、シェーンブルンの和約を結んだので解消された。
出典:対仏大同盟>世界史の窓
これで西欧はイギリスを除いておおかたフランスのものになった。