歴史の世界

道家(7)老子(「無為」について①--「無為」と「有為」の境界)

無為自然」を理解するために、今回は「無為」について理解する。

老子』のいうところの「無為(または無為自然)」は何もしないということではなく、「あるがままに生きる」と解されることが多いらしい *1

老子』を自己啓発書として読むだけなら上の解釈だけでよいのかもしれないが、ここではもう少し詳しく理解したい。

注意したいのは『老子』の編纂者たちが対象とした読者が為政者層だということだ。(記事「道家(4)老子(「道」とはなにか)」参照)

だから『老子』の「無為」「有為」の「為」は、本来は「為政者が為すこと」の意味になる。自己啓発書として読むのは『老子』の編纂者たちの意図とは違うので注意したい。

(「無為」について、簡単にまとめることができなかったので、記事を分割することにした。)

「無為」と「有為」

「無為」「不為」の思想は、それらの中で最も守備範囲の大きな、何でも有りの包括的な思想と言うことができる。包括的だと言う主な理由は、「為す」という言葉が、人間の考える・知る・言う・欲する・行う、等々のありとあらゆる人為(人間のさまざまの行為)の領域を含むものであって、その否定の形が「無為」「不為」であるからである。[中略]

ところで、老子が「有為」と言って否定する人為とは一体、どういうものを想定しているのであろうか。人間は、誰しも一切の人為を捨て去っては、生きていくことができない。[中略] 老子が否定するのは、ある許容できる質と量を越えた領域や程度の人為であろうけれども、それが『老子』の中に明示されていないために、今日我々の理解を困難にしているように感じられる。老子が許容できない「有為」だと言って否定する領域は、主として上に挙げた柔弱・不争・謙下・無学・無知などとは逆の広義の倫理、および天下・国家の統治権力を握ってそれらを統治する政治にある。また。「有為」と「無為」とを線引きする人為の程度は、通常以下の些少な人為であるか否かに置かれており、それを低く押さえれば「無為」にカウントされる、と言うことができよう。

出典:池田知久/『老子』その思想を読み尽くす/講談社学術文庫/2017/p306-307

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)

簡単にまとめると、上の引用では「有為」とされるものをまず「領域」と「程度」に分けられる。

「領域」は「広義の倫理」と「政治」に分けられる。

「程度」は「通常以下の些少な人為」は「無為」にカウントされ、それ以上は「有為」となる。

引用部分の後を読み進めて、もう少し詳しく見ていこう。

程度の問題 = 「無為」と「有為」の境界の問題

まず先に程度の問題から片付けよう。

老子』第63章に以下の文句がある。

爲無爲。事無事。味無味、大小多少。報怨以徳。
圖難乎〔其易也、爲大乎其細也〕。
天下之難作於易、天下之大作於細。
是以聖人終不爲大、故能〔成其大。夫輕若必寡信、多易〕必多難。
是〔以聖人〕猶難之、故終於無難。

現代語訳文
一切の人為を排した無為を為し、全く無事を行い、全然、味のしない無味を味わうことを通じて根源的な道の立場を確立しながら、大であれ小であれ多であれ少であれどんな事態に立ち至ろうと、他人から怨みの仕打ちを受けることがあった場合でも徳(道の働き)でもって応ずるがよい。
徳でもって応ずるとはどういうことかと言えば、この世の中に生気する難しい事業に対しては、〔その易しい萌芽の状態〕において対策を考え、〔大きな事業に対しては、小さな前兆の段階において対策を施すのである〕。
なぜなら、天下のあらゆる難事はいずれも易しい萌芽状態から生起し、天下のあらゆる大事はいずれも小さな前兆段階から発生するからだ。こういうわけで、理想的な人物たる聖人は最後まで大きな事業を為そうとしないが、だからこそ〔大きな事業を成し遂げる〕ことができるのである。
〔一体、軽々しく安請け合いする者は、必ず信実に乏しいものであり、たやすいと甘く見ることが多い者は〕、必ず多くの困難に陥るものだ。こういう〔わけで、理想的な人物たる聖人〕でさえ事態を難しく考えて取り組むのだが、そうであればこそ彼は最後まで困難に陥らないのである。

出典:池田氏/p837-838(一部改変)

私なりに言い換えると、
「道」を体得した聖人は、大きな難事に成り得る物事を萌芽状態の時に見つけ出して処理してしまうため、大難事に取り組むことは無い。だから聖人は難事に妨げられることなく発展し続けることができ、大きな事業を成し遂げることができるのである。

そういわけで、程度の問題 、つまり 「無為」と「有為」の境界の問題について以下のようにしておこう。

大きな事業(大難事)に取り組むことを「有為」とし、大難事に成り得る物事を小事のうちに処理することは「無為」にカウントする、と池田氏は説明する(p311-313)。小事を処理する様(さま)は、傍(はた)からは「何もしていない」ように見えることだろう。

この第63章を理解すれば、大事を為して誇る者を『老子』が褒めない理由も理解できる。