(ブログのタイトルを変えました。「歴史の世界」→「歴史の世界を綴る」。)
保立道久氏によれば、「『老子』は、まずは「王と士の書」として読むべきものであろう」としている。 *1 *2
簡単に言えば、(大きな意味での)為政者たちの教訓・心得のような書ということ。『老子』の著者たちの為政者の理想像。
「大邦を治むるは、小鮮を烹るがごとし」
『老子』の中で天下を語る章は数多いが、まずは有名な第60章から。
大邦を治むるは、小鮮を烹るが若(ごと)し。
道を以って天下に莅(のぞ)めば、其の鬼は神(しん)ならず。
其の鬼 神ならざるに非ざるなり、其の神 人を傷つけざるなり。
其の神 人を傷つけざるのみに非ざるなり、聖人も亦た傷つけざるなり。
夫(そ)れ両(ふた)つながら相い傷つけず、故に徳は交ごも焉(これ)に帰す。読み下し文
一体、大国を統治するのは、譬えてみれば小魚を煮るようなもので、つついたりかき回したりしない。
統治を行う聖人が、道の立場に立って天下に君臨するならば、冥界の鬼神たちもこの世にたたりを下すことはない。
冥界の鬼神たちがたたりを下さないのではなく、鬼神たちの霊力がこの世の人々を傷つけることがないのである。
彼らの霊力が人々を傷つけないばかりではなく、統治する聖人もまた人々を傷つけないのだ。
このように、冥界の鬼神たちとこの世の聖人との両者ともに人々を傷つけることがない。其の結果奥深い徳(道の働き)はこもごも人々の身に集まってくるのである。
有名な「大邦を治むるは、小鮮を烹るが若(ごと)し。」
この章には「無為」という言葉は使われていないが、前々回に書いた記事 (「無為」と「有為」の境界) で書いたとおり、小さな行為は「無為」にカウントされる。
この章の「小鮮を烹る」も「無為」にカウントされる。
そして、これも前々回に書いたことだが、大きな難事に成り得ることを小事のうちに処理することが(「道」を体得した)聖人=為政者の仕事である。これがこの章の「小鮮を烹る」の意味になる。
「道を以って天下に莅(のぞ)」むというのは、結局のところ「無為」を以って天下を治めるという意味と同じ。
最後の「奥深い徳(道の働き)はこもごも人々の身に集まってくるのである」の部分は、意訳すれば「為政者が庶民に大事業を起こすことなどの面倒なこと(=有為)を押し付けなければ、庶民は日常の中で秩序(=道)にしたがって繁栄を続けることができる」となる。「徳」という字は本来「常同的ないきおいをもった善いはたらき」という意味を持っている *3。
「無為の治」= 『老子』の理想の政治
『老子』は「聖人」という言葉をよく用いる。その意味は「道」を体得した者。その者はほとんどの場合 為政者のことで、基本的には天下(全中国)を治める王のことを指す。
『老子』が聖人(為政者)に求めるものを幾つか挙げる。
聖人民衆の上に君臨しようとする場合も、必ず謙遜した言葉遣いによって民衆にへりくだり、民衆の先頭に立とうとする場合も、必ずわが身の安楽を民衆よりも後回しにする。(第66章) *4
国家に置いて汚辱の地位を感受して柔弱に徹する。/国家において不吉の身分を引き受けて柔弱に徹する。(第78章) *5
最善の国家の統治者は、下位の人民にただその存在が知られているだけで、君臨はするけれども統治しない君主である/統治者に充分な信実がなければ、人民の不信を買うことになる/彼のようにぼんやりとして一切の言葉を忘れてしまうならば、それが原因となって、人々は功績を挙げ事業を成し遂げる結果を得るが、しかし彼らはこれを自分たちで成し遂げたものと考えるのだ。(第17章) *6
上のような政治の仕方を浅野裕一氏氏は「無為の治」としている *7。
歴史に名を残している為政者は大事業を成し遂げて称えられているが(逆の場合も少なくないが)、『老子』の為政者の理想像は徹頭徹尾裏方を務めて、他者のケツを拭くことも厭わず、名を挙げることを善しとしない。『老子』によれば、こういう者は、最終的に人々に王として押し上げられる、という。
ええー... 歴史のどこを探せば そんな事例があるのかと思うのがそれは置いておいて話を進めよう。
『老子』の中の「陰陽」
『老子』の「無為」は「陰陽」における「陰」ということができるだろう。一方、「大功を挙げて人民に称えられ、人々は口々に為政者の名前を口にする」というのが「陽」だ。
世間一般で言えば、「陽」が当たり前に受け入れられるが『老子』は「陰」を以って国家を統治することを理想としている。
そして『老子』曰く「正言は反するがごとし(真に正しい言葉は世間の常識とは反対のように見えるものである)」(第78章) *8。