歴史の世界

道家(14)老子(戦略書としての『老子』④--「無形」と「道」と世界観)

今回は《実は『老子』の中の重要な概念「無」「無為」も『孫子』の「無形」から発展したものだった》という お話。

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

水の比喩と「無形」と「無」「無為」

そもそも軍の態勢は水のありかたに似ている。水の流れは高いところを避けて低いところへ走る。軍の態勢も兵員装備の充実した敵を避けて、虚(すき)のある敵を撃つ。水は地形によって流れを決めるが、軍は敵情によって勝を決める。だから、軍には一定した勢いというものはなく、水には一定した形というものはない。巧みに敵情に応じて変化し、勝利を治めることのできるもの、これが神妙というものである(第6 虚実篇)。

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p108

この中には、前回の記事の中で書いた「勢」について書いてある。

これと対となって書かれているのが「一定した形というものはない」、つまりこれが「無形」。

ユアン氏によれば、上の水の比喩には「勢」と「無形」 *1 を表しており、『老子』の編集者はその2つのコンセプトを利用したとしている。

「勢」については前回書いたので、今回は「無形」を書く。

水は無形の概念を表すためには最適なイメージであり、この比喩は、主にこの目的の達成のためにつくられたものであると言える。ところが『孫子兵法』全体にも言えることであるが、無形という概念は、軍事の分野に応用するための原則として提唱されたものだ。よって、この概念をより一般的な分野に応用するためには、多くの修正が必要となったのである。結果として、『道徳経』の変遷者たちは水のイメージを捨てて、無形の概念を最も重要な概念である道(タオ)へと大きく応用し直したのだ。

すでに『道徳経』の最初の章の中で道は「語りうるもの」でないし「名づけうるもの」でもないと説明されている。そして無形という概念は、道についての多くの説明において様々な形で再提示されている。

出典:ユアン氏/p116-117

つまり『孫子兵法』(=『孫子』)の「無形」が『道徳経』(=『老子』)の「無」「無為」の概念になったのだ。(「無」や「無為」については記事「道家(6)~(10)」で書いた。)

ただし、《無形の概念を最も重要な概念である道(タオ)へと大きく応用し直したのだ》とあることので、水の比喩から「道」ができたわけではないようだ。

「無」「無為」の概念のせいで「道」の理解が難しくなった?

一つ困ったことに、ユアン氏曰く、「一般的な分野に応用するために」水の比喩から「道」へと より抽象度の高い概念にしてしまったために、「道」がどういうものなのか理解することが難しくなってしまった。

これは素人だけではなく専門家でさえ難しいらしい。専門家をして「道」についていくらか確実なことを言えるとすれば「変化は不変である」ことくらいだそうだ(p117)。

「道」と「世界観」

この抽象度の高い「道」の概念は現代日本では人生哲学の一部として使われていたりするが、戦略書として『老子』を読むならば、「道」は政治における世界観を形成するという。

世界観について

ここで話は逸れるが世界観についてかいておきたい。『老子』関する世界観ではなく、政治一般に関する世界観について。

戦略においての世界観という用語は、上のユアン氏の本の翻訳者である奥山真司氏によれば、戦略の階層の最も根本の部分である。

f:id:rekisi2100:20190613104433p:plain

出典:奥山真司/戦略の階層を個人向けに修正 /地政学を英国で学んだ

例えば現代韓国を例に取ると、あの訳の分からない反日活動を「政策」(≒行動方針)とすると その方針の源になるのが「世界観」で韓国人の歴史観や劣等感や儒教小中華思想による日本(人)蔑視などが含まれる。

上の図の引用元では「戦略の階層を個人向けに修正」した案を書いているが、そこでは

  • 世界観→人生観
  • 政策→生きざま/生き方

と書いている。

一般人が生活していく上で、その行動は人生観によって決められているということになるだろう。

(世界観や戦略の階層について詳しくなりたいのならば、ネットで「世界観 戦略 奥山真司」で検索するのが手っ取り早い。

「道」と「世界観」に戻る

話は「道」と「世界観」に戻る。

ユアン氏によれば、『老子』の世界観は「道は無形であり現実は常に変化している」(p120)。

戦いの分野では、すでに長年認識されてきたものであるように、一つのことに固執するというものほど危険なものはない。つまりあらゆる可能性を秘めた状況の変化に対して、行為者が柔軟に対応しようとするのを妨げるようなルールや命令を設定することほど、最悪のものはないということだ。タオイスト[ここでは『老子』の編纂者の意味--引用者]は道(タオ)という概念を採用することによって状況の変化にも対応できるようになったのであり、これによって、あらゆるモデルに取って代わる力を秘めた「変動モデル」への第一歩となったのだ。だからこそ老子は「柔弱(すなおさ)を保持することが(真の)強さとよばれる」(第52章)と主張する。

出典:ユアン氏/p120

「柔弱」については前回書いたが、《成熟したり極限に至って「反転」してしまうことを阻止》する能力のことをいう(p114)。

前回書いたとおり、「道」(=法則・慣習・日常など)から大きく逸脱すると、「反」の理論によって破滅するのだから、「柔弱」を保持する者が最終的には「剛強」「堅強」に勝つことになる。

タオイストはこのような世界観を土台として、行動方針(政治なら政策)を考えていく。

中国の世界観

さて、中国の戦略思想は『老子』の編纂者たちによって完成された、とユアン氏は主張している(p123)。これは現代中国にまで通用する。

国史の中で特に有名なのが前漢初期の「黄老思想」の政治だ。「黄老思想」は『老子』の思想のことだ。

ユアン氏によれば、現代中国において、国内政策の胡錦濤の「不折騰」(いじくりまわさず)には「大きな国を治めることは、小さな魚を煮るのに似ている」(大国を治むるは小鮮を烹(に)るが若し--第60章)という意味を含んでる。他方、対外政策の鄧小平の「韜光養晦」(とうこうようかい)には《「才能を隠して、内に力を蓄える」という中国の外交・安保の方針》*2 のこと。同じく対外政策の胡錦濤の「平和的台頭」もこの意味だ。ユアン氏は「このような概念は、最初にタオイストのアイディアを把握できないと、そもそも理解できないものだ」と書いている。

だが2019年現在、習近平国家主席の政策は「中国製造2025」に代表されるように、世界覇権国アメリカに挑戦している。

そして米中冷戦とか米中経済戦争などと言われる確執の中で中国は劣勢に立たされている。このような状況を竹田恒泰氏は「因幡の白兎」に例えて「習近平は鄧小平・胡錦濤の努力を台無しにする」という趣旨のことを主張している。石平氏も同じような考えで「習近平はバカだ」と言っている。

その一方で、渡部悦和氏、江崎道朗氏、潮匡人氏らは中国が技術分野の中でアメリカを凌駕している部門があることに危機感を抱いている(日本などは遥かに遅れをとっている)と主張している。軍事・安全保障の専門家ほ土器期間が強いのかも知れない。