歴史の世界

フランス革命 《特別編》 フランス革命戦争(2/2)

前回からの続き。

徴兵制度

このような戦線の拡大に対して国民公会は戦時体制、兵力の確保に迫られた。1793年2月21目の正規軍と義勇兵の統合(アマルガム法という)に始まり、2月24日には「30万募兵法」を布告した。これは満18歳以上40歳までの未婚または子のない寡夫が対象とされ、30万人に達するまでいつでも徴兵に応ずるように待機しなければならない、というものだった。
 しかし、この実質的な徴兵に対して、国内では3月にフランス西部で反発した農民によるヴァンデーの反乱が起こった。革命政府は農民反乱はカトリックなどの反革命運動と結びついているとして、厳しくそれを弾圧した(後述)。
 ついで、同年8月23日には「国民総動員令(国民総徴兵法ともいう)」が成立、18歳から25歳までの青年男子全員を動員し、百万人規模の国民皆兵の態勢に入った。[中略]さらに1798年にはより整備された徴兵制度が成立する。

出典:徴兵制<世界史の窓

絶対王政の王様たちは傭兵を雇って戦争をさせるというのが普通である。革命より前のヨーロッパの戦争はみんなそうだった。

革命に際し、フランスは徴兵制を導入しました。傭兵と違い、フランス国民は逃げ帰るところがないので、必死で戦うわけです。でも、それだけでは単なる精神論です。逃げ出されたら困る傭兵は軍楽隊の太鼓の音に合わせて「密集隊形」で戦います。これに対して、国民軍(共同体軍)であるフランスは、散っても戻ってこられる散兵戦術がとれます。「プロの傭兵の密集隊形vs.国民軍の散兵戦術」という構図はアメリカ独立戦争フランス革命初期の干渉戦争でも見られました。結果はというと、アマの軍隊では、プロの傭兵に善戦するのが関の山です。

出典:倉山 満. 嘘だらけの日仏近現代史 (SPA!BOOKS新書) (p.98). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.

引用元ではこの徴兵たちを使いこなす術を生み出したのが天才ナポレオンだと書いてあるが、ナポレオンのことについては別の記事で書く。とにかくフランスの徴兵された軍隊が善戦してプロ集団を押し返すことに成功した。ナポレオンが総司令になるまでのフランス軍のメリットは質でなく量だった。

8月23日、国民公会は「国家総動員」を発令し、徴兵制度を施行した。身代わりの許された30万人募兵と違って、各階層の国民を平等に徴兵し、新たに120万の兵士が軍に加わった。これは傭兵を軍の主力としていた当時のヨーロッパの君主制国家では想像できないほどの大兵力であった。

出典:フランス革命戦争 - Wikipedia

国民総動員令よりフランス軍は立ち直り、年を跨ぐくらいになると国外へ構成に転じるようになる。そして各国の戦意を挫いていった。

ただし最初の引用にあるように徴兵に反対する人たちもいた。市民、すなわち革命に影響を受ける環境にあった都市に住んでいる民衆は徴兵を容認しやすかったが、そうではない農民は反発した。(詳細は引用元で)

革命軍の勝利、同盟軍の敗北

1793年末からフランスは反攻に移り、国内に侵攻していた同盟軍を全て国外まで撤退させた。同年12月19日、ナポレオン・ボナパルトトゥーロンの奪還に重要な役割を果たし、おおいに名声を高めた。その後もフランスの攻勢は続き、1795年4月6日にはプロイセンバーゼルの和約を締結してラインラントを獲得し、同年5月にはオランダに衛星国のバタヴィア共和国を建国した。スペインもまた第二次バーゼルの和約でフランスと休戦した。10月26日、国民公会が解散されて総裁政府が成立、フランス軍はドイツ、北部イタリアの征服に取り掛かった。

1796年3月、イタリア方面軍司令官に任命されたナポレオンは、イタリア遠征に取り掛かり、緒戦でサルデーニャ王国を破り同盟から脱落させ、更にオーストリア軍を打ち破った結果、1797年4月7日、レオーベンの和約でオーストリアと一時停戦し、同年10月17日のカンポ・フォルミオの和約の締結で完全に休戦し、多くの領土を割譲させた。ここにおいて第一次対仏大同盟は崩壊し、イギリスだけが交戦を続けることとなった。

出典:第一次対仏大同盟 - Wikipedia

ベルギーに続きオランダもゲット。オランダの栄光(商業覇権)を牽引したオラニエ家は追放されてしまった。フランスはその他の地域でも支配権を拡大させた。

第二次対仏大同盟

"第一次"が瓦解した後も英仏は戦っていた。その流れの中で再び同盟が結成される。

1798年、イタリア遠征を終えたナポレオン・ボナパルトは、イギリスとインドの連絡を断つべくエジプト遠征に乗り出した。オスマン帝国相手の陸戦では勝利を重ねるも、ナイルの海戦でフランス艦隊はホレーショ・ネルソン率いるイギリス艦隊に敗北、これによってナポレオンはエジプトから動くことができなくなった。

ナポレオンの不在を好機と見た諸国は、同年12月24日、第二次対仏大同盟を結成し、フランスへの攻撃を開始した。

出典:第二次対仏大同盟 - Wikipedia

1799年にはナポレオンのクーデターがあり、1802年のイギリスとのアミアンの和約によってすべての国との戦争が終わる。(ここらへんはナポレオンの時代なので別の記事で書く)。