歴史の世界

諸子百家のまとめ③(道家/法家)

今回は道家と法家。まとめはこれで終わる。

道家と「道」

道家とは「道」を重要視する思想。

「道」は道家に限らず古代中国思想における概念の一つであった。たとえば儒家では倫理道徳の規範が「道」と呼ばれた。

道家における「道」は万物を生み出した存在と同時に、万物を制御する存在でもある。物理法則を支配していると同時に人間社会をも支配している。

一神教における造物主(唯一神)に似たイメージでいいと思うが「道」は神格化・人格化されてはいない。

道家の代表的な書物は『老子(=道徳経)』と『荘子』の2つだが、この2つで「道」の意味合いが違う(後述)。

老子

社会における「道」とは、社会を暗黙のうちに制御している慣習・文化のことだ。『老子』はこの「道」に従い、無為・無欲・柔軟・謙虚・控えめに生きていくことで社会の秩序が保たれる、と説く。

老子』の重要なキーワードに「無為」というものがある。これは何もやらないということではなく、「大事」をやらないということだ。非日常的な大きな出来事を起こすと秩序が乱れ、社会の崩壊に繋がりかねないとする。

もしどうしても大事業が必要なのであれば、日常の範囲内で長い日数をかけて「小事」を積み重ねて達成させるべきだ、と説く。

そして『老子』が説く「無為」とはこの「小事」のことだ。

もうひとつ、『老子』を語るときの重要なキーワードとして「無為自然」というものがある。Googleなどで「無為自然」は『老子』で出てくる意味とは違うようだ。

老子』の「無為自然」は政治用語だ。細かいことは記事《道家(10)老子(「無為自然」と政治)》で書いた。ソースは池田智久《『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)》

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)

簡単に言えば、「無為自然」は《為政者が「無為」をモットーとして政治を行えば、民は自律的に行動して秩序が保たれる》ほどの意味になる。

老子』は本来は為政者のための指南書なので、この解釈のほうがあっていると思う。

荘子

政治的な『老子』に対して『荘子』は、政治・社会に関係なく専ら個人の生き方に焦点を当てた思想だ。

荘子』における「道」は、道家のそれと同じく《万物の根源であると同時に万物を制御するもの》だが、『荘子』の考えでは《世界あるいは宇宙を制御する「道」の観点に立てば万物の違いなど無きに等しい。人間が「有る・無し」とか「可か不可か」とか区別することは無意味だ》というのだ。

荘子』の中でいちばん重要なキーワードが「万物斉同」だが、これは《「道」の観点に立てば万物の違いなど無きに等しい》から導かれる。

「斉」「同」ともに「等しい」という意味で、「万物斉同」は《万物は等しい》《万物の違いなど無きに等しい》ということだ。どういうことかというと、「道」の観点からすれば....

  • 万物は差異が無い
  • 差異が無いので区別がない
  • 区別が無いので万物は一つである。

ということで、《万物は等しい》とは《万物は一つ》であるということだ。

これでも何が言いたいのかわからないだろう。

長い文句になるが『荘子』が言いたいところは以下のようなものだ。

人間は物事の差異をはっきりと区別して秩序を保とうとしたり、差異を分析して対処しようとするが、本質的に同質のものを区別しても無意味である。そんなまどろっこしいことをしないで、物事をあるがままの状態で受け入れて、対処すべき問題も無理のない仕方で対処する。これが『荘子』における「無為自然」で、一般的にいわれる「無為自然」の意味は『老子』のそれではなく、『荘子』のものだった。ただし「道」を体得した者は自分が「無為自然」で生きていることも意識しなくなる。

荘子』が目指す人間の生き方が「道」を体得して「無為自然」の状態で生きることだ。

道家道教の関係

ちなみに、道教というものがあるが、道家道教の関係はあまり無い。道教は歴史的に言えば雑多な民間宗教だったのであり、道家はその一部として取り入れられて入るが、雑多な要素の中の一つでしかない。

法家

ここでは『韓非子』だけを取り上げる。『韓非子』は法家の集大成と言われている。

人は利で動く

韓非子』の思想の中心にある考えは「人は利で動く」。この考えは一貫していて親子関係でさえ利益と打算で成り立っていると考えている。信頼や愛情というようなものは否定されている。

人間不信

《人主の患は、人を信ずるにあり。人を信ずれば則ち人に制せらる》(備内篇)という言葉は有名で、『韓非子』の人間不信を表している。

君臣関係は利益と打算によって成り立っているので、臣下に君主よりも大きな利益を与えれば用意に君主を裏切る。これが『韓非子』が言いたいこと。

では、臣下を従わせるにはどうしたらいいか?

君主論あるいは帝王学

根本的なやり方はアメとムチを使い分けること。以下は二柄篇より。

名君は二つの柄(え)を握るだけで、臣下を統率する。二つの柄とは刑・徳のことである。刑・徳とは何か。罰を加えることを「刑」といい、賞を与えることを「徳」という。臣下というものは罰をおそれ賞をよろこぶ。

出典:西野広祥・市川宏 訳/中国の思想 [I] 韓非子徳間書店/p28

これを踏まえた上で、君主の臣下操作術というものがある。

一つは形名参同術。これは、あらかじめ法律を公布し(成分法)、賞罰や昇進の基準を公表して、これに臣下を従わせる。

もう一つは、「七術」というもの。これは内儲説上篇にある。

  1. 多くの手がかりを集めてそれを突き合わせて総合的、実証的に判断する。
  2. 威厳をもって、必罰をおこなう。
  3. 能力を発揮させるために、然るべき者に恩賞を与える。
  4. 個別に分離独立して意見を聴取し、実績に従って結果責任を問う。
  5. 不可解な命令や態度をわざとして、臣下を疑心暗鬼にさせ、また臣下をそれで試す。
  6. 知らないふりをして、質問して、どう応えるのか観察する。
  7. 意図することの逆のことを言ったりしたりして、相手の反応を見る。

出典:冨谷至/韓非子中公新書/2003/p148

前者は公表するもの、後者は手の内にしまっておくもの。