歴史の世界

楚漢戦争③ 雪だるま式に増える項梁勢力

前回からの続き。

項梁・項羽は精鋭8千兵を引き連れて、会稽郡を出て長江を渡って北上する。

反秦勢力を吸収

項梁は地元の会稽郡を平定し郡守(郡のトップ)となり、さらに(詐称だが)張楚国の上柱国(宰相)と称した。ただし、張楚国は既に秦軍に撃破されて崩壊していた。陳王(陳勝)は敗走して行方知れずになっていた(陳王が配下に殺されたという情報は他の地方の各勢力は長く確認できずにいた)。

下の地図で項梁らの行軍ルートが確認できる。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p83

二世二年(前208年)1月、項梁は八千の精鋭を引き連れて長江を北上し、広陵に入る。2月には更に北上して下邳を拠点とする。下邳は項梁の故郷の下相のすぐ北にある。

項梁軍は東陽県で陳嬰、行軍の途中で英布・蒲将軍の軍を新たに配下に加えることになり大軍となった。『史記項羽本紀によれば、このときの兵力は6~7万だという。項梁は秦軍と当たる西方ルートに進まず、地図にあるように東方を北上して反秦勢力を集結させることに努めた。

反秦勢力の代表格・秦嘉との対決

さて、秦嘉という人物もまた陳勝呉広の乱をきっかけにして決起した人物だ。

陳勝呉広の乱の直後、秦嘉は数人の仲間と決起し、東海郡(現・山東省臨沂市と江蘇省北部)の郯(たん。現山東省の郯城県)で囲んだ。この時 陳王は将軍を派遣して秦嘉をコントロールしようとしたが秦嘉はこの将軍を殺し、さらに大司馬(大将軍)を自称して陳王から事実上独立した。

1月、張楚国が崩壊した後、秦嘉は楚の公族で名門である景氏の後裔の景駒を王に擁立した(拠点は留、沛の近辺)。こうして張楚国に代わる楚国を再建して反秦勢力の吸収を図った。劉邦も一時期だけだが彼らの配下に入った。

さて、2月に入り反秦勢力のトップの座をかけて秦嘉と項梁が衝突することになる。しかし あっけなく項梁軍が秦嘉軍を撃破し、秦嘉は4月に反撃を試みるが戦死する。景駒も逃亡の途中で死んだ。

これにより秦嘉側の残党をも吸収し、項梁が陳王に代わる反秦勢力の最大勢力となった。

楚国建国

4月(または6月)、項梁はさらに北上して薛(せつ)に入る。薛は戦国時代の斉の孟嘗君の領地として有名な場所。

項梁はここで会盟を開く。反秦勢力の大同団結を呼びかけ、各地の諸勢力を集めた。この場所で陳王が死んだことを確認した上で集まった諸勢力は項梁を陳王に代わるトップと認めて、自らは配下となって秦に立ち向かうことを誓った。劉邦もこの会盟に加わって項梁の配下になった。

ここで楚漢戦争の中でも重大なイベントが起こる。それが楚国建国。キーマンは范増という人物。

范増は居巣(現在の安徽省巣湖市)の人、後に項羽の参謀となり項羽に亜父と呼ばれた人物だ。薛の会盟の時に駆けつけた一人でこの時すでに70歳に達していた。范増は項梁の前に出て以下のように献言する。

陳勝の敗北は当然のことです。秦が六国(魏・趙・韓・斉・楚・燕)を滅ぼした時、楚は最も罪が無かったのに、懐王は秦に入ったら帰してもらうことはありませんでした。楚の人は今でもこのことを憐れんでいます。だから、楚の南公[5][6]も『例え楚が三戸になろうとも、秦を滅ぼすのは必ず楚であろう』と言ったのです。陳勝は初めに決起しましたが、楚王の子孫を立てずに、自ら王となったため、勢いは長続きしませんでした。あなた(項梁)は江東で決起しています。楚で蜂起した将たちが争ってあなたに就くのは、あなたの家柄が代々の楚の将軍であるから、楚王の子孫を王に立てるであろうと考えているからです」 出典:范増 - Wikipedia (「南公」についてはよく分かっていないらしい)

項梁はこの献言に従った。『史記項羽本紀には「民の願いに従った(從民所望也)」ともある。どこの馬の骨か知れない陳王を庶民が王として戴く気にはなれないということか。でもそうなると劉邦はどうなのだろうか?

さて、項梁は旧楚の懐王の孫(または玄孫)で民間の羊飼いの心という人物を王として擁立した。これを懐王(のちの義帝)として、楚の王室を復活させて(張楚のような偽物ではなく)真の楚国の復活を演出した。

あたらしい楚国は東陽に近い盱台(くい)に首都を置き、陳嬰を上柱国として民政に当たらせてスタートした。

懐王が項梁の傀儡として演じ続けていれば問題なかったのだが、懐王は今後 王としての権力を行使するようになる。ここで二重権力が出来上がってしまい、これが後に項羽の足を引っ張る事態となる。