歴史の世界

楚漢戦争⑥ 鉅鹿の戦い 前編

さて、いよいよ鉅鹿の戦い。

鉅鹿の戦いは趙国の鉅鹿での戦闘。秦と楚の勢いが逆転する重要なイベント。そして項羽が楚国の実権を握り、それだけでなく、反秦勢力のほとんどを従える存在となる。

この戦いは秦帝国から前漢帝国の過渡期の中でサラッと流されやすいのだが、秦帝国の滅亡が不可避となる重要なイベントであり、楚漢戦争を理解する上でも重要なので詳しく書いていく。

史記』に書いていない部分に関しては佐竹靖彦『項羽*1 による。

項羽

項羽

鉅鹿の戦いが行われた鉅鹿は趙国の都市の一つ。

趙国は張楚国・陳王の配下だった張耳・陳余が、かつての趙の公子であった趙歇を王として擁立していた。趙の都は西部・信都。

以下の年月は基本的に『史記』秦楚之際月表による。

秦の二世2年(前208年)後9月(閏9月)

秦の総大将・章邯は秦の二世2年(前208年)9月に項梁軍に大勝した後、後9月(閏9月)に趙国を本格的に攻略することにした。新しい楚国を倒すために東部に深入りするよりも、首都・咸陽に より近い趙国を制圧することを選んだわけだ。斉の勢力を深追いしすぎて項梁らに敗北した反省がうかがわれる。

秦軍が趙に来るという情報を聞いた張耳・陳余は計画を練り、張耳は趙王と共に鉅鹿(邯鄲の北東)で籠城し、陳余は常山(鉅鹿の北西)に行って兵を集めることにした。

一方、章邯は秦都・咸陽から派遣された王離軍に鉅鹿を包囲させ、自身は兵站を含む後方支援をした。章邯は鉅鹿と棘原(黄河の北岸)を繋げる甬道を築いた。甬道とは食料などの物資運搬を行うための特別な道で、道の両側に障壁を築いて敵の攻撃を防ぐ。これにより鉅鹿の籠城戦の王離軍に十分な補給を確保した。

楚国はこの後9月に宋義を上将軍(総大将)とした楚軍も趙国の救援に出発させている。

二世3年(前207年)10月

秦の暦は10月に年始を迎える。年が明けて二世3年(前207年)10月、章邯はかつての趙都・邯鄲を攻撃・破壊して住民を他に移した。ここに籠城されると陥落させるのに数年を要すると判断したからだ *2

燕国からは将軍・臧荼が救援として到着、また斉からは田都が田栄の意に反して項羽の下に駆けつけた。

宋義率いる軍とは別に、楚国は劉邦軍を西へ派遣する。劉邦軍は成武(定陶の東南)の南で東郡と王離軍の別働隊を破る *3。 ただし、劉邦軍のそれ以上の戦績は芳(かんば)しくなかった。

このような状況の中で、宋義率いる楚軍は安陽に着いてから動こうとしなかった。

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出典:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p162

  • ↑の地図の「安陽」は諸説あるとのこと。

11月

安陽逗留46日が経ったとき、項羽は宋義に秦軍を直談判したが拒否される。

宋義の戦略は籠城戦で秦軍が勝利した後で、疲弊しているところを叩くというものだった。さらに宋義は斉と同盟を結ぶ算段をつけて、息子の宋襄を斉の相にすることとなった。かつての大国であった楚と斉が同盟すれば秦に対抗できるというわけだ。佐竹氏によれば、懐王・宋義は戦国時代のような複数の国に別れた中国の未来を思い描いていたのだが、項羽は秦軍を攻め滅ぼすことしか考えていなかった。

さて、宋義は自ら無塩まで行って宋襄を送るための大酒宴会を行った。そういった中で、兵士たちは飢え凍えていた。

ここで項羽は決断する。

項羽は、「秦が趙を打ち破れば、さらに強大になる。懐王は宋義を上将軍に任じ、国運を託しているのに、宋義は兵を憐れまず、子の出世という私事ばかり考えている。社稷の臣ではない」と言い、懐王の命令と偽り、宋義が斉と謀り反逆したとして、宋義が帰ってきたところを殺害する。諸将は項羽に従い、項羽を仮の上将軍とする。また、宋襄も追いかけて殺害した。懐王は、項羽を上将軍に任じ、項羽が趙救援の軍を率いることとなった。

出典:項籍 - Wikipedia 

佐竹氏によれば、『史記項羽本紀では、この時 諸将は怖れおののいて項羽服従したと書いているがそうではなく、諸将と兵たちは「秦を倒す」という反秦勢力の本来の目的に立ち戻った項羽を積極的に支持し、これがその後の奇跡的な大勝利につながった、としている。

続く。



*1:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010

*2:史記』秦楚之際月表による。『史記』張耳・陳余列伝では邯鄲破壊の後に張耳らが鉅鹿に入城したことになってる

*3:史記』秦楚之際月表には《攻破東郡尉及王離軍於成武南》とあるが、王離軍は鉅鹿を包囲しているので、こちらは秦の中央から派遣された王離軍の別働隊と思われる