歴史の世界

楚漢戦争㉕ まとめ その1

これまで長々と楚漢戦争について書いてきたが、今回はそのまとめを書く。(といっても複数の記事になってしまう)。

楚漢戦争の起点は定説がないようだ。このブログでは、起点は劉邦項羽に対して正式に反旗を翻した彭城の戦いとしている。

ただしこのブログでは、三国志の物語が黄巾賊の乱から話をするように、楚漢戦争を陳勝呉広の乱から話を進めている。このまとめでもこの乱から始めることにする。

暦の問題

最初に暦の問題を書いておく。ややこしいので予め理解しておく必要がある。

史記』では年の表し方は秦の始皇帝の元年(略して秦始皇元年または始皇元年)とか二世皇帝二年(二世二年)などと書かれる。ちなみに元号というものは前漢武帝代から始まった。

秦の暦は特殊で、10月が年始となる。つまり、秦始皇元年(前251年)の9月の次の月が始皇二年(前252年)10月となる *1 。このブログでは便宜的に西暦も10月を年始とする秦暦に合わせることにしている。

もうひとつ、『史記』では秦二世皇帝が二世三年(前207年)の9月に死んだ後、明くる月は「漢元年10月」としている(『漢書』では「高祖元年」という書き方をしている)。暦は秦暦を継承して、10月が年始となる。

  *   *   *

さて、それでは本題に入ろう。

第一幕:陳勝呉広の乱

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出典:浅野典夫/図解入門よくわかる高校世界史の基本と流れ/秀和システム/2005/p65

反乱の原因

まずは反乱の原因から。

陳勝呉広の乱は前209年、秦の二世皇帝元年に起こった。秦による中華統一の前221年からわずか12年しか経っていない。

つまりは始皇帝の政策に大きな問題があったから反乱が起こったと見るべきだろう。

上記の図解は政策についてまとめてある。大きな問題を2つ挙げるとすれば、不満の蓄積と防衛の問題だ。

不満の蓄積の面について。

  • 郡県制:旧六国(秦以外の国々)の有力者(旧王族・貴族)らの既得権益を剥奪して恨みを買った。
  • 造営事業:労役増加を含む大増税によって民衆の不満が高まった。

こういった不満が高まるのは百も承知だった。戦国時代の秦においてはこのような不満は法治つまり厳重な管理社会を築いて抑え込んできたが、広大な中国本土を短期間でそのような社会に変えることは不可能だ。だから武力によって鎮圧するしか無い。

そこで防衛面について。

各地の防衛を担当するのは郡だった。郡には郡守(軍の長官)を中央より派遣するのだが、兵隊は現地の庶民から徴兵した。反乱が起こった時はまず郡の軍隊が鎮圧に当たるが、対応しきれない時は中央から軍を派遣する。

しかし、陳勝呉広の乱が起こると旧六国地域の郡の軍のほとんどが、中央から派遣された官僚らを殺して反秦勢力と化した。

全国の郡の兵隊が一気に敵になることを始皇帝は想定していなかった。まあ普通はそんな事を考える必要はないのだが、そのような状況を作ったのは始皇帝の政策だった(上記参照)。

反乱の始まりと終わり

陳勝呉広は庶民だった。

二世皇帝2年(前209年)7月彼らは北方辺境の防衛をするために徴兵された。しかし、北方へ行く途中で大雨に遭って足止めを喰らい、期日中に目的地に到着することができなくなった。秦の法律は期日に到着できなかったらどんな理由であろうと斬首というものだった。

陳勝呉広はどうせ死ぬなら一花咲かせて死のうと決意し、引率の将尉を殺して徴兵された兵士を味方につけ反乱軍になった。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p83

彼ら反乱軍はかつて旧楚国の都になったこともある陳県を手中に収め、ここを都として張楚国を建国した。「張」は「大いなる」という意味で、ようするに楚国の復活を意味した(両者ともに楚人)。

陳勝呉広の成功を伝え聞いた各地の庶民は一斉に反乱を起こし、中央から派遣されてきた官僚を殺して反秦勢力と化した。ほとんど旧六国全土が反秦となった。

陳王 *2 となった陳勝は各地に兵を派遣して反乱を支援した。各地を影響下に置こうとしたのだが、派遣した配下の者たちが陳王のコントロールを離れて勝手なことをやりだしたため統率は取れなかった。

楚軍は秦都・咸陽にも出兵し都の近くまで進撃するが、将軍・章邯の軍に撃退されてしまう。ここから秦の反撃が始まる。これが9月のこと。

章邯は楚軍を押し返しながら東進し、12月 *3 には楚都・陳を攻め落とした。陳王は敗走の途中で臣下の一人に殺される。

こうして陳勝呉広の乱からはじまる張楚国はわずか半年足らずで滅亡するのだが、彼らから始まった各地の反乱勢力は健在だった。

第二幕:項羽と劉邦(と項梁)の登場

時間を少し遡って二世2年(前209年)9月。

項羽の叔父にあたる項梁が陳勝らに刺激されて決起した。

項梁はわけあって会稽郡(呉)にいたが、会稽郡守であった殷通を殺して自ら郡守となり、兵をまとめて長江を北上した。

項梁は楚の大将軍項燕の末子ということもあり、行軍するにつれて、反秦勢力が彼のもとに糾合した。

さらに二世3年(前208年)1月、項梁に陳王の使者と称する人物が訪れ、陳王が項梁を上柱国(宰相)に任命すると言ってきた。陳王は12月に殺害されているのでこの人物は偽物なのだが、この時点では情報が錯綜していたようで陳王の安否は確認できない状況だった。ともかく項梁はこれ以降、楚の上柱国を名乗ってさらなる求心力を得た。

4月、戦国四君で有名な孟嘗君のかつての領地であった薛で、項梁は各地の反秦勢力に大同団結を呼びかけて会盟を開いた(この時に劉邦も参加した)。ここで陳王の死が正式に確認されて、新しく楚国を建国する必要性が出た。

ここで会盟に駆けつけた一人である范増が「旧王族を王に立てるべきだ」と主張し、項梁がこれを認めた。王族を探すことに苦労したが、やっとのことで羊飼いに身を落としていた心という人物を見つけ出し王に据えた。これが懐王だ。

6月、新しい楚国を建国して体制を整えると攻勢に出た。項梁軍は総じて良く戦い、ジリジリとだが章邯の軍を西に押し返していった。しかし9月になると秦より大軍の増援が到着し、章邯は 慢心を見せた項梁に一気に攻め込み敗死に追い込んだ。

ここで新しい楚国が一気に壊滅の危機に見舞われる。

*1:閏月がある場合は9月の次に後9月(閏9月)が来る。

*2:本来なら楚王と呼ばれるべきだが、『史記』では「陳王」と書いてある

*3:年が変わって二世3年(前208年)