歴史の世界

楚漢戦争② 項梁・項羽の決起

陳勝呉広の乱に呼応するように項梁・項羽が決起した。

秦を滅ぼして、いちおう天下統一を果たしたのは「西楚の覇王」と呼ばれた項羽だが、決起した時は叔父の項梁の副将だった。

項梁・項羽の決起は項梁を中心に話を進めよう。

項羽

項羽

項梁という人物

項梁は戦国末期の楚の大将軍項燕の末子。項氏は楚の名門の一族だった。

項燕は秦軍20万の侵略を撃破したが、翌年に60万で進軍してきた秦軍に敗れ、その翌年に再戦を挑んだが敗れて戦死した人物。『史記』によれば、陳勝呉広が乱を起こした時に「人民から人気のある扶蘇・項燕であると詐称した」とあるので、楚で英雄視されていたことが分かる。

項氏は項城(現・河南省)が本拠地であったが、項一族は戦国楚の滅亡により下相(現・江蘇省)に移った。しかし項梁は人殺しを犯して敵討ちを避けるために呉(現・浙江省)に移った。

呉に移った項梁は実力者たちから親分として立てられ、大事業や葬式などがあると項梁が元締めとなった。

郡守となる

さて、二世2年(前209年)9月に陳勝呉広の乱が起きて、各地の庶民が郡県の長が殺して決起する中で、会稽郡守(軍の長官)は項梁を将軍にして秦に対して決起しようとした。しかし項梁は項羽を呼んで郡守を殺させた。

項梁は郡守の首と印綬を持って郡の役人の前に立った。数十人が項梁に襲いかかったが、これを項羽が全て撃ち殺した。残りの役人は項梁を郡守と認めるよりほかなかった。この後、郡内の県に人を遣(や)って収めた上で8,000人の精鋭を集めた。豪傑たちを組分けしてそれぞれ校尉・軍侯・司馬を決めた。項羽は裨將(副将)とした。

楚の上柱国を詐称

二世2年(前209年)1月 *1 、郡を平定した項梁のもとに陳王の使者と称する人物が訪れた。この人物は陳王の命として項梁を上柱国(宰相)に任命すると言った。

しかしこれは全くの出鱈目だった。先月12月に既に陳勝は配下に殺害されている。この謎の人物は召平といい、広陵江蘇省)の人物。彼もまた陳勝らの乱に呼応して決起したのだが、広陵の人々を従わす事ができずにいた。そうしているうちに張楚国が陳王ものとも消滅してしまったので、召平は会稽郡を平定した項梁を頼ることにした。

召平は項梁に対して上柱国になれと言っただけでなく、加えて「江東(会稽郡)はもう平定したから、はやく西のかた秦を撃つように」と言った。しかし実際は北の広陵に進軍させた。『史記』にはたまにこういった謎めかしい人物が出てくるので面白い。史実なのかどうかは置いといて。

いずれにしろ、知ってか知らずか項梁は召平の言葉に従って上柱国を名乗り、広陵へと秦軍を始めた。

話は次回へ続く。

項羽について

ここで軽く項羽について書き留めておく。

項一族については項梁のところで書いた。項梁は叔父。

史記』によれば、項羽は文字を習っても覚えられず、剣術を習ってもあまり上達しなかった。項梁はそのことで項羽を怒ったが、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。剣術のように一人を相手にするものはつまらない。私は万人を相手にする物がやりたい」と答えたので項梁は喜んで集団戦の極意である兵法を項羽に教えた。項羽は兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった。

項梁に従い、呉に移住した。成人すると、身長が8尺2寸(1尺が23-24cmとして約188-196cm)の大男となり、怪力を持っており、才気は人を抜きんでていたこともあって、呉中の子弟はすでに項羽には一目置いていた。

出典:項籍 - Wikipedia (名は籍、字が羽)

引用は『史記項羽本紀の通り。項羽劉邦の敵なので、上段のようなネガティブな書きぶりは前漢の時代では仕方がなかったようだ。下段が司馬遷にとってのせめてもの抵抗なのかもしれない。



*1:秦の暦は10月を年始としている。つまり10月に年が変わる