前回からの続き。
骨肉の後継者戦争
ダレイオス2世が亡くなるとアルタクセルクセス2世が大王に即位する。骨肉の争いはアルタクセルクセスが即位したあとだった。
アルタクセルクセスはダレイオスの息子で、同腹の弟にキュロスがいた。ただし、両者の母親パリュサティスは弟の方を大王にしたかったようだ。
アルタクセルクセスが即位の儀礼を旧都パサルガダエ *1で行なっている最中にキュロスが暗殺を試みたが失敗した。キュロスは捕まって処刑されるはずだったが、パリュサティスが助命嘆願して赦された。
赦されたキュロスはもとの任務に戻った。キュロスはアナトリア西部のリュディア *2 のサトラップであったが、主要都市サルディアに戻ると傭兵を集めた。
前401年、キュロスはついに挙兵し、サルディスを発って、王都バビロンを向かった。大王軍も都から出て両者はバビロンの北70キロに位置するユーフラテス河畔のクナクサで対峙した (クナクサの戦い - Wikipedia )。
この戦いは、ギリシア語史料 *3 によると、キュロス軍が優勢であったがキュロス自身が先走りしすぎて、敵の投槍を受けて戦死してしまい決着がついた。いっぽう、ペルシア帝国の公式見解によれば、大王アルタクセルクセスとキュロスが戦場で決闘して大王自らの手でキュロスを誅殺した。 *4
いずれにしろ、これにより権力抗争は決着した。
コリントス戦争と大王の和約
コリントス(コリント)戦争はギリシア勢力どうしの戦争だが、ペルシア帝国も深く関わっている。
ペロポネソス戦争の最中にスパルタはペルシア帝国に対して資金援助を申し出た。対価としてアナトリア西岸のギリシア諸都市がペルシア帝国支配下であることを認めることで合意した。この協定によってスパルタはアテナイに勝利できた。(前回参照)
これから数十年が経ち両国の王も代替わりする。前399年、スパルタ王の一人 *5 アゲシラオス2世が、上記の協定を破って、ギリシア都市をペルシアの支配から解放すると称してアナトリアに攻め込んだ (アゲシラオス2世 - Wikipedia )。
この時、スパルタは当てないに代わってギリシアの覇権を握っていたが、ペロポネソス戦争を共に戦った有力都市のコリントスやテーバイはこの戦いには参加しなかった。それどころか彼らはスパルタの勢力拡大志向に警戒していた。
そこでペルシア側が、スパルタに反感を抱く(彼らを含む)ギリシア諸都市にカネを配りながら戦争を煽った。その甲斐あって始まった対スパルタ戦争がコリントス戦争だ(前395年)。ペルシア帝国は各都市に支援金をばらまくだけでなく、自らも戦争に参加した。
しかし、特徴的なのはカネのバラマキ方だ。
コリントス戦争では、ペルシア帝国の支援先は一貫していない。アテナイとスパルタを交互に支援したあげく、最終的にはペロポネソス戦争時と同様、ペルシアの支援によってスパルタを勝たせた(前387年)。
出典:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p189
ギリシア人どうしの戦いの本当の勝者はペルシア帝国だった。この戦争の終結を意味する講和条約の名は(ペルシアの将軍の名にちなんで)「アンタルギダスの和約」と呼ばれることもあるが、もうひとつの呼び名「大王の和約」のほうがふさわしいだろう。
大王の和約
前386年、アケメネス朝ペルシア帝国のアルタクセルクセス2世が、ギリシアのスパルタと、アテネ・テーベ・コリントの同盟の間のコリント戦争の仲介して締結した和約。和約と言うが事実上はギリシアの諸ポリスがペルシア帝国と締結した誓約である。小アジアとキプロス島はペルシア帝国領と定められ、ペルシア戦争の発端となったイオニア諸市は完全にペルシア領に復した。他のギリシア本土のポリスは独立が認められたが、侵略者に対してはペルシアと共に戦うことが規定され、スパルタがこの条約実効の監視役という立場となった。
このやり方は古代ローマや近代のイギリスが行なった手法、すなわち分割統治そのものだ。当時のペルシア帝国には昔のような強力な軍事力はなくギリシアを併呑できなかったが、戦争によって弱体化したギリシア諸都市を影響下に置くことには成功した。
エジプト奪還ならず
エジプトの反乱は先王の最末期に始まり死の直前に王国が宣言された。
上記のキュロスとの後継者戦争を終わらせた後、すぐにエジプト鎮圧に取り掛かったと思ったらどうもそうではないらしい。
記録があまり無いらしいのだが、エジプト遠征は2~3度行われたらしい。このうち遠征の内容が分かるものが一つある。
前373年に遠征が行われるのだが、その司令官はファルナバゾスとイフィクラテスだった。
ファルナバゾスはペルシア帝国の大貴族の家系でヘレスポントス(アナトリアの北西部)のサトラップだが、イフィクラテスはアテナイの将軍だった。アテナイとしてはペルシア帝国の遠征の参加要請(または命令)に逆らうことができなかった。
しかし、メンフィス攻略戦の前に2人が仲違いして作戦が失敗した後、イフィクラテスがアテナイに帰国してしまった。これで遠征そのものが失敗になってしまう。
これ以降も遠征は企画されたが、アルタクセルクセスが高齢で求心力が無くなってしまったため、企画倒れになってしまった。(阿部氏/p211-213)
大王の求心力低下と後継者戦争と総督の反乱
上述の阿部氏によれば、当時のギリシア人は「ペルシアは恐れるに足りない!すでに衰退の一途を辿っている!」と息巻いていたが(p194-)、ペルシア帝国はなかなか倒れなかった。それどころか当のギリシアはペルシア人の影響下に置かれていた。
21世紀、日本の言論人が「中国はもうすぐ潰れるだろう」といいつづけてはや数十年が経っている。歴史は繰り返される。
さて、そんなペルシア帝国だが、衰退の影はたしかにちらつかせていた。
〔前361年に〕アジア沿岸部の人々がペルシアから離反し、幾人かの総督や将軍が暴動を起こし、アルタクセルクセスに戦争を仕掛けた。同時にエジプト王タコスもペルシアと戦うことに決め、歩兵を徴募した。(ディオドロス『歴史叢書』150・90・1~2)
出典:安倍氏/p197
これについての解釈は複数あるのだが、安倍氏の見立てによれば、大王の老齢による求心力の低下によるものではないか、という。
大王は在位46年だったが、前361年当時の年齢は不確かではあるが80歳半ば~90歳前後だった。総督の反乱については前366-361。(p198-199)
これにより後継者争いが宮廷で起こり始め、それから各地に広がった。応仁の乱のようなものを想定しているようだ。
ただし、安倍氏はここから右肩下がりに衰退していくとは解釈していない。すなわちこの現象は後継者争いが終わるまでの一時的な動乱で、次期の大王が定まった時に自然消滅したと考えている。(p201)
いっぽう、青木健『ペルシア帝国』 *6 ではダレイオス2世の晩年にエジプトの独立を止められなかったところから既に衰退していた、とする。(p87)