銀行戦争:中央銀行の廃止
当時のアメリカの中央銀行である第二合衆国銀行については以前に何度か書いた。「銀行戦争」当時の当銀行の総裁はニコラス・ビドルで、彼の代でようやく中央銀行としての役割が軌道に乗ったところだった。
しかし、ジャクソンは中央銀行廃止論者であり、本当に廃止してしまった。その経緯が「銀行戦争」だ。
(ただし、当時と現代の中央銀行では制度・役割にズレがある。このことも以前に書いた。ただし、今回についてはそのズレはさして重要ではない)
ジャクソンはなぜ銀行を嫌ったか
思想面:紙幣や信用経済への不信があり、金銀貨(正貨)を重んじる「ハード・マネー」派だった。自身も投機の失敗で債務に苦しんだ経験がある。
特権への反発:少数の富裕層と株主(外国人株主も含む)が政府の特許で利益を得ている、という平等主義的な批判。
憲法論:大統領も議会も、独自に合憲性を判断する権利があるという立場だった。
政治的な危機感:銀行が議員や新聞に融資や弁護料を出し、政治に影響力を持つことを警戒した。政敵のウェブスターは銀行の顧問弁護士でもあった。
経過
1829〜31年:ジャクソンは第1回年次教書で銀行に疑問を示した。ビドルは当初、妥協の道を探った。
1832年:クレイらが、特許の期限(1836年)の4年前に更新法案を議会に出し、選挙の争点にしようとした。ビドルも同調した。法案は議会を通ったが、7月、ジャクソンが拒否権を行使した。拒否権メッセージは、法案の違憲性に加え、富者と権力者が政府を私益に使うことを批判する内容で、選挙演説のような性格を持っていた。クレイらは「扇動的」と非難したが、この訴えは庶民に響いた。
1832年11月:再選。クレイを大差で破った。ジャクソンは、国民が銀行に反対したと受け止めた。
1833年:連邦預金の引き揚げに動いた。財務長官マクレーンは反対し、後任のデュエインは拒否して解任され、ロジャー・トーニーが長官となって、同年秋に実行した。新規の預金を州法銀行(いわゆる「ペット・バンク」)に回し、既存の預金は支払いに使って減らしていく方式だった。
1833〜34年:ビドルの反撃。預金の流出に対抗して融資を絞り込み、景気を悪化させた。圧力で議会とジャクソンを動かす狙いだったが、世論は多くの場合ビドルを非難し、狙いは外れた。
1834年:上院が、預金引き揚げは権限の逸脱だとして、ジャクソンに問責決議を可決した(クレイが主導)。ジャクソンは抗議文を出し、1837年1月、ベントンらの運動で決議は議事録から抹消された。
1836年:特許が失効した。銀行はペンシルベニア州の州法銀行として存続したが、1841年に破綻した。
結果と影響
短期的影響(経済の混乱):中央銀行による規律が失われたことで、地方の州立銀行が乱立し、信用膨張と土地投機が激化。これを抑えるためにジャクソンが出した「正貨通貨令(1836年)」が引き金となり、次代のマーティン・ヴァン・ビューレン政権下で1837年パニック(大恐慌)が発生した。
長期的影響(金融体制の不全):アメリカはその後、1913年に連邦準備制度(FRS)が創設されるまで、約80年間にわたり正式な中央銀行を持たない状態が続くこととなった。
政治的影響:反ジャクソン派が集結し、二大政党制の一翼を担うホイッグ党を結成する直接の契機となった。
無効化危機
無効化危機は、1832年から33年にかけて、サウスカロライナ州が連邦の関税法を「無効」と宣言し、連邦政府と正面から対立した事件である。発端は、保護関税への南部の不満だった。1828年の関税法は、北部の製造業を守るため輸入品に高い税をかけ、輸出用の綿花を作り、工業製品を買う側だった南部には負担になった。南部の人々はこれを「憎むべき関税」と呼び、特に綿花の輸出に頼るサウスカロライナの不満は大きかった。1832年にも関税は改定されたが、引き下げは不十分とされ、州内の怒りは収まらなかった。
理論的な支柱となったのは、当時の副大統領カルフーンである。彼は、連邦は主権を持つ州の合意によって成り立つのだから、州は憲法に反すると判断した連邦法の効力を自州内で拒否できると主張した。この考えは、ジェファソンとマディソンが起草した1798年のケンタッキー・ヴァージニア決議にさかのぼるが、晩年のマディソンは、無効化論は自分の主張の誤用だとして否定している。1832年11月、サウスカロライナ州は特別会議で、1828年と1832年の関税法を州内で無効とする条例を採択し、翌年2月以降は関税の徴収を認めないと決めた。連邦軍が介入すれば、分離も辞さないという姿勢だった。
ジャクソンは、州権を重んじる立場でありながら、これを認めなかった。彼にとって連邦は、州の契約ではなく国民全体が作った体制であり、一つの州が法を拒むことは、連邦の存立を否定する反逆だった。1832年12月に出した布告で、無効化は連邦と両立しないと明言し、武力による分裂は反逆にあたると警告した。同時に、サウスカロライナの政治家と、州民とを区別して、州民には冷静になるよう呼びかけた。さらに、軍に備えを命じ、必要なら力を使う意思を示した。カルフーンとの個人的な対立も重なり、カルフーンは12月に副大統領を辞任して、上院議員に転じた。
ただし、ジャクソンは力だけで押さえようとはしなかった。1833年3月、連邦法の執行のために大統領が軍を使えるようにする強制法を成立させる一方で、クレイが主導した妥協関税も成立させ、関税を約10年かけて段階的に引き下げることを決めた。強硬と妥協を同時に進めたことで、サウスカロライナは孤立し、他の南部諸州も無効化に同調しなかった。同州は関税法の無効化条例を撤回し、危機は収束した。ただし、面目を保つため、最後に強制法の無効化を宣言している。
結果として、連邦の優位という原則は守られたが、問題が解決したとは言えなかった。サウスカロライナは、州が自分の判断で連邦に抵抗できるという考えを放棄せず、のちの世代に引き継いだ。また、ジャクソン自身、関税は口実にすぎず、次に使われる名目は奴隷制だろうと見ていたとされる。実際に、1830年代には奴隷制廃止運動が広がり、南部は奴隷制を守る姿勢を強めていった。
この危機は、南北戦争の前触れとして位置づけられる。無効化の理論は、州が連邦から離れる分離の権利の議論へと発展し、1860年から61年にかけて、サウスカロライナを先頭に南部諸州が連邦を離脱した際、その主張の根拠になった。一方で、ジャクソンの「連邦は国民全体のもので、州の勝手な離脱は認められない」という論理は、リンカーンが南北戦争で連邦の維持を訴えた際に、受け継がれたと言われる。ただし、ジャクソンの時代は、関税が主な争点で、奴隷制が正面の問題になった1860年とは状況が違う。また、無効化の危機は妥協で収まったのに対し、1860年代は妥協の余地がなく、内戦になったという大きな違いもある。
歴史学では、この危機を、連邦の優位を示した勝利とするか、南北の亀裂を埋められなかった失敗とするかで見方が分かれる。いずれにせよ、州と連邦の関係をめぐる対立が、のちに内戦にまで至る長い過程の重要な一段階だったことは、広く共有された理解である。