歴史の世界

新アッシリア④ アッシュルバニパル/アッシリア滅亡

前回からの続き。

エサルハドン(前681年 - 前669年)
アッシュールバニパル(前669年 - 前627年頃)
アッシュール・エティル・イラニ(前627年頃 - 前623年頃)
シン・シュム・リシル
シン・シャル・イシュクン(前623年頃 - 前612年頃)
アッシュール・ウバリト2世(前612年頃 - 前609年頃)

出典:アッシリアの君主一覧 - Wikipedia

エジプト征服

前669年、先代エサルハドンの陣中での急死した。エジプトの現地人たちがこの機に乗じて反乱を起こしたことは前回書いた。跡を継いだアッシュルバニパルは一旦エジプトより兵を引き、王都で即位継承の諸事を済ませてから、前667年にエジプト遠征に乗り出した。

アッシリア軍はエジプトの反乱を片っ端から蹴散らしていった。上エジプトの反乱軍(第25王朝、ヌビア王朝)はヌビアに逃げた。一方、下エジプトの反乱軍はほとんどの諸侯(諸王)が滅ぼされ、唯一残されたサイスの王ネコ1世が下エジプトの管理を委任された(第26王朝)。ネコ1世はエジプト全土の統治を委任されたのだが、実際は、上エジプトに関しては(アッシリアに降伏した)テーベの有力者メンチュエムハトが事実上の支配者だった。

しかし、アッシュルバニパルがエジプトから軍を引くとすぐにヌビア王タヌトアメンがエジプトに戻って全土を掌握した(この戦いの中でネコ1世は殺害される)。

アッシリア軍は前666年にエジプトに戻りヌビア勢力を押し返してエジプト全土を再征服する。その後ヌビアは2度とエジプトを攻めることはなかった。

その後の話。↓

勝利を得たアッシュルバニパルは前665年にプサムテク1世を全エジプトのファラオとし、エジプト全土にアッシリアの守備隊を配置した。その後、アッシュルバニパルはアナトリアのタバル(英語版)、北方のウラルトゥ、南東のエラムなど他の地域での戦いに注力した。彼のエジプトへの関心が低下したことを受けて、エジプトは流血を伴うことなくアッシリアの支配から緩やかに離脱していった。

出典:アッシュルバニパル - Wikipedia

プサムテク1世はネコ1世の息子。この時期のエジプトについては 《エジプト第26王朝① ネコ2世まで》で書いてある。

アッシリアがエジプト(そして全オリエント世界)を支配していた期間は短かった。

バビロニアの反乱

前652年、バビロニアシャマシュ・シュム・ウキンが反乱を起こす

シャマシュ・シュム・ウキンはアッシュルバニパルの兄であり、先代エサルハドンが生前に「アッシュルバニパルをアッシリア帝国の王、シャマシュ・シュム・ウキンをバビロニア王」にすることを決めた。この決定はバビロニアアッシリア帝国に従属していることも含まれている。

アッシュルバニパルの王即位からこの反乱までの十数年のあいだに幾らかの確執があったがここでは省略する (詳細はシャマシュ・シュム・ウキン - Wikipedia )。

反乱軍には西方のエラム人、南方のアラブ人、バビロニア内のカルデア人なども参加して大規模なものになった。数年続く反乱は前648年に籠城したバビロンが陥落することで終結する。

バビロニア王として名ばかりの王カンダラヌが置かれた。

エラム攻略

上記のバビロニアの反乱にも参加したエラム人だが、この反乱の前にもアッシリアと戦争をしている。当時のエラムの王テウマンは全エラムをまとめ上げ、アッシリアに攻め込んだ。しかし前653年ウライ河の戦いで大敗し、テウマン自身も捕らえられて殺害された。 *1

その後、エラムはテウマン以上の勢力を回復することができずに前646年、アッシュルバニパルにより滅ぼされた。その後のエラム人勢力はメディア王国に圧迫された後、ペルシア帝国に吸収されて消滅する。

アッシュルバニパルの死とその後/滅亡

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アッシリア時代、アッシュルバニパルが死亡した頃の帝国の版図。深緑はアッシリアのpahitu/pahutu(属州)、黄緑色はmatu(従属王国)、クリーム色はバビロニアの従属王国、黄緑色の点はその他の従属王国、黒い点はバビロンの王国のpahitu/pahutu(属州)、茶色の文字はかつて存在した属州。

出典:アッシュルバニパル - Wikipedia

前627年、アッシュルバニパルが亡くなる。これ以降アッシリアは衰退して滅亡の一途をたどる。前609年がアッシリア帝国の最後の記録になるのだが、この間の歴代の王たちは政争にエネルギーを費やし、内乱と侵略を防ぐことができなかった。(この時期の史料は乏しく、詳細は分からない。)

アッシュルバニパルが亡くなった同年にバビロニアの傀儡王カンダラヌも亡くなり、次の王が決まらないまま1年が過ぎた。このあいだにバビロニアで反乱が起こり、その首領であるナボポラッサルがバビロンを陥落し、バビロニア王となった。ナボポラッサルから続く新しい王朝が新バビロニアと呼ばれる王朝となる。

これよりアッシリアバビロニアの戦争が延々と続くことになるのだが、前612年、ナボポラッサルは新興国メディアと同盟を組んでアッシリアの王都ニネヴェを陥落させる。

ニネヴェを逃れた王族の一人がハッラーン(現代トルコ南東部の都市)で、戦死した王の跡を継ぎアッシュル・ウバリト2世と名乗ったが、前609年にここも陥落。アッシュル・ウバリト2世は逃れたようだがその後の行動はよく分かっていない。これでアッシリアは滅亡した。(新バビロニアとメディア王国は別の機会に書く)



*1:ウライ川は現代イランの西部を流れるカルヘKarkheh河