歴史の世界

エジプト第26王朝① ネコ2世まで

前回からの続き。

広く通用している王名を括弧内に記す。
ネコ1世(前672年頃 - 前664年頃)
プサムテク1世(プサメティコス1世 前664年 - 前610年)
ネカウ2世(ネコ2世 前610年 - 前595年)
プサムテク2世(プサメティコス2世 前595年 - 前589年)
ウアフイブラー(アプリエス 前589年 - 前570年)
イアフメス2世(アマシス 前570年 - 前526年)
プサムテク3世(プサメティコス3世 前526年 - 前525年)
在位年は参考文献『ファラオ歴代誌』の記述に基づく。

出典:エジプト第26王朝 - Wikipedia(改変有り)

ネコ1世(先代?)

第25王朝の末期にアッシリアがエジプトに侵略・支配した。

アッシュールバニパルはタハルカの進軍にあわせて下エジプトで反乱を起こしたエジプト貴族の大半を処刑したが、この時、アッシリアに従順であったサイスのネコ1世(ネカウ1世)だけは、「サイスの王」としての地位を保障され、またネコ1世の息子、プサメティコス1世(プサムテク1世)は「アトリビスの王」として、父とともにエジプトの管理をアッシリアから任された。アッシリアの手によって有力な貴族の多くがその力を失う中で、地位を維持したサイスの王家はエジプトにおける地位を確固たるものとしていくことになる。そしてこのサイスの王家が第26王朝とよばれる政権を形成することになるのである。

出典:エジプト第25王朝 - Wikipedia

サイスもアトリビス(Athribis)もナイルデルタの都市。

アッシリアが第25王朝との戦争に勝利して全エジプトを支配すると軍を引き、エジプト統治の権限をネコ1世に委任した。ネコ1世の時代はまだしもエジプトにはアッシリアに対する反抗勢力はのこっており、彼はこれらを監視する役割を持たされていた。上エジプトに関しては(アッシリアに降伏した)テーベの有力者メンチュエムハトが事実上の支配者だった。

そして(前回書いたことだが)ヌビアに逃げた第25王朝のタヌトアメン王がエジプトに攻め込んだ時に、ネコ1世は捕らえられ殺害された。タヌトアメン軍はアッシリアに撃退され、これ以降ヌビアの勢力はエジプトへの関与を諦めた。

プサメティコス1世(第26王朝初代)

ネコ1世を継いだのが息子のプサメティコス1世。彼の時代になるとアッシリアはエジプトへの関心が薄れていった。中東での攻防が忙しくなったからだ。この機会にプサメティコス1世は下エジプトの権力を掌握し、上エジプトに対しては娘のニトクリスを「アメンの聖妻」にすることに成功し、彼によって全エジプトは一つの王朝の下に統一された。

プサメティコス1世はその後も国内の安定を図り、国外の交易も促進して繁栄を築いた。そして前650年代に始まったアッシリアの内紛の中で、プサメティコス1世はアッシリアとの関係を断ち切って独立を果たした。

この独立をもって第26王朝が始まった、とされるらしい。なので初代はプサメティコス1世。

アシュルバニパルの死後、アッシリアは急速に弱体化する中で、プサメティコス1世は新王国時代のようにシリア・パレスチナに遠征軍を繰り出した。

2代目ネコ2世

プサメティコス1世は前610年に亡くなり、息子のネコ2世が継ぐ。彼はプサメティコス1世の政策を継ぎ、シリア・パレスチナに遠征軍を繰り出した。だが、結論だけ言えば、アッシリアから独立した新バビロニア軍に敗北して撤退した。

アッシリア滅亡後のオリエント世界で勢威を振るったのはエジプト、新バビロニア、メディア、そしてアナトリア半島のリュディアという四つの大国であった。エジプトにとって他の三ヵ国のうち最も憂慮すべき相手は国境を隣接する新バビロニアであり、ネコ2世が敗北した後もシリアを巡る戦いが繰り返されることになる。

出典:エジプト第26王朝 - Wikipedia

新バビロニアには勝てなかったが、ネコ2世治世のエジプトはオリエント世界では「4強」の一角とされるほどの充実した大国だった。

f:id:rekisi2100:20210916102739j:plain

出典:エジプト第26王朝 - Wikipedia

ネコ2世については3つほど事績が残っている。1つ目はエジプト海軍の話。

前7世紀後半にギリシアは貿易拡大策を進め、ネカウ2世が、追放されたイオニアギリシア人を雇って、エジプト海軍を作ったのはこの頃である。エジプト人は基本的に海を好まず、恐れの感情を抱いていたことからすれば、画期的なことであった。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p251

2つ目。ナイル川と紅海の間に運河を掘らせたこと(スエズ運河の2500年前)。開削できたかは不明。

3つ目。ヘロドトスが『歴史』の中で伝えるところによれば、フェニキア人に命じてアフリカ周航を行わせたという話(ポルトガルの航海者バルトロメウ=ディアスが喜望峰を発見する2100年前)。これは伝聞なので命令自体が事実かどうか不明だが、現代でもアフリカ周航が達成された信憑性は議論されているらしい。