歴史の世界

新アッシリア⑤ ニネヴェの図書館/言語/行政/アッシリアの強さ

これまで新アッシリアについての歴史の流れを追ったが、流れ以外の部分をここでは書く。

ニネヴェの図書館

ニネヴェはアッシリア地方の都市の一つだったが、センナケリブの治世に遷都されて大都市に生まれ変わる。

ニネヴェが有名なのはアッシリアの首都としてではなく、ここの遺跡から膨大な史料が発見されたからだ。そしてその史料が見つかった場所がアッシュルバニパルが建てたと言われる王立図書館だ。

アッシュルバニパルの図書館は、メソポタミア北部のニネヴェのクユンジクの丘に紀元前7世紀に設立された図書館で、王室の記録、年代記、神話、宗教文書、契約書、王室による許可書、法令、手紙、行政文書などが発見されている。遺物の文書記録(粘土板)の殆ど(30,943 点)は、大英博物館(ロンドン)に保管されている。

出典:アッシュルバニパルの図書館 - Wikipedia

この図書館にはシュメール語から翻訳された文書も含まれ、その遺物は古代メソポタミアを理解するための欠かせない知識を現代に伝える。この遺物は現代の「アッシリア学」の基礎となった。

アッシリア学」とは《古代オリエントで使用された楔形文字そのものと、これを用いた諸民族の言語・歴史・文化(政治・社会・経済・法律・宗教・芸術・文学など)を研究する学問》 *1 のこと。

言語・文字

アッシリアの言語はアッカド語楔形文字だったが、時が経つに連れアラム語が併用されるようになった。アッカド語の書紀とアラム語の書紀がさいようされるようになった。

アラム語が普及した理由は、アッシリアがシリアやメソポタミアの一部にあったアラム人の小国家群を併呑したこと、アラム人が交易で活躍したこと、アラム文字が単音文字(アルファベット)で文字数が少なかったことが挙げられる *2

アッシリア帝国滅亡以降も普及して、アケメネス朝ペルシアの公用語になったし、イエス・キリストが使用していた言語もアラム語だった(というのが定説らしい)。

また、文字に関して言えば、この時代に書記媒体が粘土板からパピルスに変わり始め、アラム語の文字(アルファベット)の普及が加速した(粘土板にアルファベットが書きにくかったようだ)。(青木健/ペルシア帝国/2020/講談社現代新書/p64)

行政

アッシリアが「帝国」と呼ばれるようになるのはティグラト・ピレセル3世の治世からだ。彼が行政改革を行なった結果が帝国の基礎になっている。これについては記事 《新アッシリア① 先帝期/帝国期の幕開け》で書いた。

広がっていく帝国を支えたのは多数の宦官の官僚だった。

アッシリア帝国は侵略した勢力を属州したが、アッシリアの宗主権を認める諸国は属国とされた。属国はアッシリアと条約を交わし、戦争に協力する義務、定期的に貢納する義務、人質を差し出す義務を負わされた。 *3

アッシリアの強さについて

位置と行政と歴代王の優位性

アッシリアはオリエント世界の中心にあった。これにより交易の富の多くはアッシリアが握ることになる。実際アッシリアは各地に関所を置いて通過税を取っていた。

しかし中心にいるということは四方に敵がいるということでもある。実際に四方から攻められていた。

これをよく対処できたのは行政が優れていたからだ。そのことは既に書いた。

さらに優れた王がこの時代を保ち続けた。アダド・ニラリ3世から新アッシリア時代が始まり、ティグラト・ピレセル3世から新アッシリア帝国が始まるとされるが、アッシュルバニパルの時代までの歴代王のほとんどが他勢力と内乱によく戦い、勢力を拡大し続けていった。

気候的要因

アッシリアの滅亡の]環境的要因
アダム・W・シュナイダーとセリム・F・アダリ、ルース・シュスターは、厳しい干ばつと増大した人口の2つの要素が、政治経済の深刻な不安定さにつながったと提案している[67][68]。反乱の可能性をなくすため、征服された人々は、しばしば長距離の強制移住によりアッシリアの属州に定住させられた[20]。アッシリアの中心部は、紀元前8世紀後半から紀元前7世紀前半にかけての人口の爆発的増加には耐えることができた。この人口増加は、主に征服された人々の帝国内への移住によるものである。しかし、イラク北部のクナ・バ洞窟(Kuna Ba Cave)で採取された2つの石筍に含まれる鉱物の堆積物の研究は、紀元前675年から紀元前550年の間に、湿潤な気候から乾燥した気候へと変化したことを示唆する。それはもしかすると、アッシリア滅亡の要因となったのかもしれない[69]。

出典:新アッシリア帝国 - Wikipedia

世界史の一つの傾向(?)として以下のことが挙げられる。

気候が湿潤なら農作物が大量に生産することができ、帝国は多くの人口と兵隊を抱えることができる。逆に乾燥化が進めば帝国の維持が難しくなり、帝国が滅び、各地の勢力は分裂する。

アッシリアの勃興は(上記の仮説が正しいと仮定して)、気候の湿潤化によってオリエント世界の農業可能地域(湿潤地帯)が広がり、逆に遊牧に適した地域(ステップ地帯)が後退し、アッシリアはオリエント世界の遊牧民たちの土地を奪うことに成功した。そして湿潤から乾燥の時代になって滅亡へと進んだ。

版図を広げた歴代王たちやその後の王たちが作った歴史は、環境が違えば違ったものになっていただろう。

鉄器と騎兵

鉄器については「ヒッタイト帝国の滅亡によって拡散した」と言われることがあるが、鉄器が本格的に使われることになるのは前千年紀に入ってからだ。

ヒッタイトの鉄器製造能力は同時代の勢力よりも優れていたかもしれないが、前千年紀の技術力と比べると劣っていた。ヒッタイトは鉄器の大量生産ができなかった(ヒッタイト帝国の強さの要因を鉄器とするのは間違い)。

前千年紀に入って農具や工具の鉄器が普及する。このおかげで山岳地帯や島嶼部にも居住地域が広がった(ただしこの広がりは、上述の気候条件のことも考慮に入れておくべきだ)。

また軍事面でも鉄器が普及した。当時のエジプトは鉄資源が不足し、武器は青銅器製を主体としていた。この差が歴然と現れてエジプトはあっけなく敗れた。

もうひとつ、騎馬。騎馬についてはキンメリア人かスキタイ人が起源だと思うが、アッシリアは彼らからこの技術を拝借した。*4



*1:アッシリア学 - Wikipedia

*2:小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p197-198

*3:小林氏/p236-237

*4:小林氏/p195-196, 227