歴史の世界

ユダヤ教成立の歴史⑧ 旧約聖書の歴史観で見る王国時代 その4 ヨシヤ王の宗教改革/ユダ王国の滅亡

前回からの続き。

イスラエル王国アッシリア帝国に滅ぼされ、ユダ王国は属国となった。

しかし、オリエント世界統一を果たしたのアッシリア王アッシュルバニパルが亡くなるとアッシリアは急速に滅亡の途をたどることになる。

そのような期間の中でユダ王国は独立して新しい国家のあり方を迫られる。

属国時代のユダ王国の政治と宗教

イスラエル王国の滅亡の時のユダ王国の王はアハズだったが、彼は属国の王としてアッシリアに積極的に近づき、アッシリアの祭壇と同じものをエルサレムで築き、ヤハウェのためのそれと取り替えた *1

アハズの次代ヒゼキアはエジプトを頼ってアッシリアに対して反乱を起こしたが大敗し、国内の町々を焼かれエルサレムを包囲された。そして莫大な賠償を支払ってなんとか滅亡は免れた。

次代マナセは再びアッシリアに忠実な属国王として振る舞った。その結果治世45年という長い年月の安定を保った。彼はバアルやアシタロテを信仰したと旧約聖書に書かれているが、山我氏によれば、旧約聖書の著者たち *2 は《すべての異教徒祭儀を画一的に「バアル」ないし「アシュトレト」の崇拝として描く傾向がある》として、マナセもアハズのようにアッシリアの祭壇を築いた可能性を書いている(p248)。

ヤハウェ(=旧約聖書の著者たちの一部)は預言者イザヤの口を借りて、これらの王を批判する(イザヤはアッシリアに反乱を起こしたヒゼキアでさえエジプトに頼ったことを批判した)。

山我氏は、後世の申命記史家(=旧約聖書の著者の一部)がマナセを王国滅亡の全責任を負わせる「スケープゴート」に仕立て上げたという(p325)。彼らの史観からみれば、マナセの大罪は後世のヨシア王がヤハウェ信仰に立ち返ったことで拭える事ができなかったほどのものだったという。イザヤがマナセによってのこぎりでひき殺されたというのもその一環かもしれない。

ヨシヤの宗教改革

アッシリアの衰退が決定的になり、ユダ王国は属国状態から独立した。そして当時の王ヨシヤはアッシリアの宗教をイスラエルから取り除き、さらに進めてヤハウェ信仰自体も改革を行った。そのやり方はかなり芝居がかっている。

彼〔=ヨシヤ〕の治世第18年(前622年)、エルサレム神域の修繕工事の際に、祭司ヒルキヤにより一つの「律法の書」の巻物が「発見」されたという(王下二三25)。書記官シャファンがこのことをヨシヤに報告し、その「書」を読み上げると、王は衝撃を受け、「我々の先祖がこの言葉に耳を傾けず、我々についてそこに示されたとおりにすべての事を行なわなかったために、我々に向かって燃え上がったヤハウェの怒りは激しい」と驚愕したという(王下二二13節)。[中略]
ヨシヤは、「発見」されたこの「律法の書」を国民の前で朗読し、ヤハウェのみに仕え、彼の律法を「心を尽くし、魂を尽くし」て実行するとの「契約」を結び(王下二三1-3)、直ちに大規模な宗教改革に取り組んだ。

出典:山我哲雄/一神教の起源/筑摩書房/2013/p249-250

この宗教改革の目的は、一つはアッシリアの宗教と(建国以前より根付いていた)バアル信仰などの多神教の除去、もう一つはエルサレム以外の聖所の廃止。後者は宗教の中央集権化に他ならない。

この改革の意図するところは、「ヤハウェのみ信仰」(拝一神教)だった。これはヨシヤ以前に預言者イザヤなどが訴えていたもので、彼らや彼らの後継者たちの考えをヨシヤが採用したのかもしれない。

この改革はヨシヤの戦死をもって途絶してしまった。ヨシヤの死後、ユダ王国はエジプトと新興国バビロニアのあいだで翻弄され、最後はバビロニアに滅ぼされ、王や国民はバビロニアの王都バビロンに強制移住させられた(バビロン捕囚)。



*1:列王記下第十六章10-16、山我哲雄/一神教の起源/筑摩書房/2013/p233

*2:正しくは「申命記史家」。ユダ王国滅亡後にイスラエルの王国時代の歴史の一部を書いた人々