歴史の世界

オリエント世界・4王国分立時代② メディア王国

メディア王国はオリエント世界の大国であった国。

メディア王国およびメディア人については史料が少なく、歴史書に記述があってもほんの少しだ。

主としてヘロドトスなどギリシア人作家の記録によってメディアの歴史が伝えられているが、メディア人自身による歴史記録が存在せず、考古学的調査も不十分であるため、その実態についてわかっていることは少なく、実際に「王国」と呼べるような組織として成立していたのかどうかも定かではない。

出典:メディア王国 - Wikipedia

今回は青木健『アーリア人』を主な参考文献とするが、著者が書いたことはいくつかある仮説のひとつだと断っている。

メディア人の形成と場所

メディア人が住み着いたのは、このイラン高原の西北部一帯。[中略]この周辺は、メソポタミア平原やイラン高原東南部のような大河にこそ恵まれていないものの、穏やかな丘陵地の中に幾筋も小川が流れ、牧畜とオアシス農業には格好の地形を提供している。メディア人は、前9~8世紀には非アーリア人先住民を同化し、前7世紀にはこの地で多数派を占め、牧畜と農業を営むに至った。

出典:青木健/アーリア人講談社選書メチエ/2009/p97

メディア人は非アーリア系の土着民と(イラン・)アーリア人が混合して形成された民族。言語は土着民のものからアーリア系(つまりインド=ヨーロッパ語族)に変わったので、アーリア人が優位に立ったということだろう。

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出典:メディア王国 - Wikipedia

地理としてはアッシリア(北メソポタミア)と接する場所だ。

メディア人が形成された当初はまだ部族連合の域を脱していない *1 のだが、それでも当時のアッシリアからすれば、無視できない勢力になっていた。

アッシリア支配下に入る

メディア人が文字情報として初めて現れたのは前9世紀後半、新アッシリア王のシャルマネセル3世(在位:前859年-前824年)の碑文だ。

この碑文の内容はシャルマネセルのメディア遠征。遠征の目的は交易ルート確保と安全保障上の問題。

後者は「文明人」と「蛮族」という世界史でよく出てくる類の問題だろう。

前者の交易の問題もアッシリアにとっては死活問題だった。イラン高原の鉱物はメソポタミア文明はその開闢当初から依存していたし、中央アジアやインドとの交易の歴史も長い。

アッシリアメソポタミア南部のバビロニアは文化面では劣っていたとされるが、この交易ルートを抑えている限り、政治面では後角以上に渡りあえた。

アッシリアはシャルマネセル以降何度も遠征を繰り返し、メディアの従属化に成功した。この従属化の状態は前7世紀の初頭まで続く。

独立と第一次メディア王国

状況が変化したのは以下の通り。

アッシリア語資料とギリシア語資料を照合して前7世紀のメディア史を推定再現するなら、前672年に至って、メディア人の族長の一人フラワルティシュ(ギリシア語名フラオルテス)が、スキタイ人の援軍を得て独立王国を建国したらしい。これが、イラン系アーリア人定住民が初めて建国した王国――通称、第一次メディア王国――である。

王都は、ハムグマターナ(古代ペルシア語。ギリシア語でエクバタナ、現代ペルシア語でハマダーン)。

出典:青木氏/p99-100

ハマダーンの場所は上記の地図参照。ザクロス山脈の山中にある盆地。冬に雪に覆われるこの地はあまり住みやすいとは言える場所出はないが、交易ルートの要衝で、イスラム時代に至るまで長く栄えた都市だ(p100-101)。

さて、「スキタイ人」が出てきたのだが、この勢力はスキタイ勢力の全部ではなく、ほんの一部だということに注意。

アッシリアが遺す文字情報によれば、前8世紀末から前7世紀初頭に、アッシリアの安全保障を悩ます勢力の一部としてメディア人の名は挙がっていた。そして最初期の騎馬民族であるキンメリア人やスキタイ人も悩みの種であった。そしてスキタイ人の一部がメディア人勢力に加わり、その一部となったわけだ。

ともかく、フラワルティシュはいくつかに分かれていた部族集団を一つにまとめて王国を形成した(ただし部族連合)。

スキタイ人が参加するまで、メディア人は騎馬戦術を知らなかった。軍事面ではあきらかにスキタイ人が上位であったのだが、はたしてフラワルティシュが戦死すると、前653年には内部にいたスキタイ王マドイェスがアッシリアに寝返った。その結果、第一次メディア王国は解体した。

第二次メディア王国誕生

第二次メディア王国の建国者がキャクサレス(ギリシア語。古代ペルシア語ではフヴァ・フシュトラ)。フラワルティシュ(ギリシア語名フラオルテス)の息子とされる。

キャクサレスはメディア(の一部?)を牛耳っていたマドイェスを祝宴に招いて暗殺し、直後に建国した。大化の改新を同類の話だ。

キャクサレスはスキタイの騎馬戦術とアッシリアの統治システム(常備軍や中央集権、官僚システムなど)の取り込みに成功し、経済では鉱物資源輸入の他にその加工技術も収入源のひとつとなった。さらにスキタイ人から学んだ家畜の交配とその売買も挙げられる(青木氏/p102)。

大帝国アッシリアはアッシュルバニパルの死後(前627年頃)に内紛により急激に弱体化し、バビロニアは独立した(前625年)。

長きに亘る戦乱の中、前612年、バビロニア軍と同盟軍であるメディアの軍勢がアッシリアの王都ニネヴェを陥落させる。

アッシリア帝国の滅亡後:オリエント世界4分割

この後、オリエント世界は4つの王国で分割されることは前回書いた。

ひとつ問題は、アッシリア地方(メソポタミア北部)だ。私は新バビロニア支配下に入ったと思っているが、青木氏はメディア王国の支配下に入ったとしている(p103)。境界は確定的ではないらしい。

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出典:エジプト第26王朝 - Wikipedia

↑の図では、新アッシリアの最期の王都であるニネヴェ(Nineveh)がメディア王国、古都アッシュール(Assur)が新バビロニアの領域になっている。

グーグルの画像検索で調べてみると、ニネヴェが新バビロニア側に入っているものの方が多いが、その根拠はやはり確定できるものではなかった。

アッシリア地方は脇に置くとして、新バビロニアがシリア・パレスチナに進軍する一方で、メディアはメソポタミアの北の山岳地帯を西に攻めて、かつてのウラルトゥとマンナエの領地を併呑した。マンナエはメディアに滅ぼされて消滅、ウラルトゥはスキタイによって滅ぼされたが、メディアがスキタイをその地から追い払った。

メディアの勢力はアナトリアまで及び、リュディア(リディア)と衝突することになったが、バビロニアの仲介で終戦し、国境を定めて政略結婚をした。

東方については確実なことは分からないが、後にオリエント世界を統一するペルシアはメディア王国の支配下に置かれた。

前585年、キュアクサレスが亡くなり、その息子アステュアゲスが王になったが、彼の事績はペルシアに滅ぼされたことだけだ。ペルシア王キュロス2世は前552年にメディアに対して反乱を起こし、前550年に滅ぼした。



*1:青木氏/p99