歴史の世界

新アッシリア③ センナケリブ/エサルハドン

前回からの続き。サルゴン2世の死後、センナケリブが引き継ぐ。

ティグラト・ピレセル3世(前744年 - 前727年)
シャルマネセル5世(前727年 - 前722年)
サルゴン2世(前722年 - 前705年)
センナケリブ(前705年 - 前681年)
ナキア
エサルハドン(前681年 - 前669年)
アッシュールバニパル(前669年 - 前627年頃)
アッシュール・エティル・イラニ(前627年頃 - 前623年頃)
シン・シュム・リシル
シン・シャル・イシュクン(前623年頃 - 前612年頃)
アッシュール・ウバリト2世(前612年頃 - 前609年頃)

出典:アッシリアの君主一覧 - Wikipedia

レヴァント(シリア・パレスチナ)攻略

エジプトはアッシリア帝国攻略の足がかりを得ようとして、帝国内の人々を扇動し始めた。その結果、紀元前701年、ユダのヒゼキヤ王とシドンのルリ王、シドカ(Sidka)、アシュケロンの王、エクロンの王たちは連合してエジプトと同盟を組み、アッシリアに対抗した。センナケリブは反乱者を攻撃し、アシュケロン、シドン、エクロンを征服し、エジプト軍を破ってこの地域から追い払った。彼はエルサレムに向けて進み、途上にあった46の町と村を破壊した(強固に守られた街ラキシュを含む)。

出典:新アッシリア帝国 - Wikipedia

センナケリブユダ王国の王都エルサレムを占領することはできなかったものの、ヒゼキヤ王から多額の貢納を出させた上で反乱を治めた。

バビロニアの反乱/バビロン破壊

レヴァントの諸都市の後ろにはエジプトがいたが、バビロニアの反乱勢力の後ろにはエラムがいた。バビロニアは反乱と鎮圧の連続だった。これらの反乱にはエラムが絡んでいたわけだが、どのくらいの割合なのかはよくわからない。

代替わりの直後にバビロニアは反乱を起こし、バビロンは反乱軍の手に落ちた。アッシリア軍は前702年にこれを鎮圧して傀儡の王を置くことにした(以前はセンナケリブバビロニア王を兼任していた)。

しかしこの王が寝返って反乱を起こす。前700年にこれを鎮圧してセンナケリブの王位継承者と目されていたアッシュル・ナディン・シュミをバビロニア王に据えるのだが、また反乱が起きて前694年にアッシュル・ナディン・シュミは捕らえられてエラムに引き渡され、その後は不明となる。この後、バビロニアアッシリアから独立し、2代の王を立てた。

その後、アッシリア軍はバビロニアエラムの連合軍との戦争が断続的に続き、先にエラムに打ち勝ってからバビロンを包囲し、前689年、アッシリア軍はついにバビロンを制圧した。その後、センナケリブが王位を引き継ぐのだが、バビロンは戦後の修復をしないどころか運河の水路を変えて市内に放水し徹底的に破壊した *1

エサルハドンの即位と内乱

[王位継承者と目されていた]アッシュル・ナディン・シュミが消息を絶って以降、当初、センナケリブは王位後継者を年長の子アルダ・ムリッシに指定したが、紀元前684年、王位後継者を年下の子であるエサルハドンに変更した。アルダ・ムリッシらが不満に思わないはずはない。紀元前681年、センナケリブは……アルダ・ムリッシら自分の子たちによって暗殺された。

出典:新アッシリア帝国 - Wikipedia

この後、外征に出ていたエサルハドンは王都に戻り、反乱軍を一蹴して王位に就いた。(素人としてはエサルハドンが王位を簒奪した上で歴史改竄をしたことを疑うのだが、歴史家がそれにまったく触れていない。)

バビロン再建

前680年、先代が破壊したバビロンの再建に着手する。バビロンはバビロニアの中心であるだけでなく、アッシリアに対しても文化的に影響を与え続けてきた都市であった。

エサルハドンはバビロンに対して(父王とは真逆に)融和的な態度で接し、反乱を起こすことを妨げた。再建は治世の間には完了しなかったが、その後、バビロンは繁栄を取り戻し、オリエント屈指の大都市に返り咲いた。

エジプト遠征

エサルハドンも他の王と同じように即位当初から遠征の連続だった。

  • 前679年にキンメリア人に西方の属州(アナトリア南西部)に攻め込まれる。
  • 同年、属国のシドン(シリア南部)が反乱を起こす。
  • 前675年、エラム人がバビロニアに侵攻しシッパル市(バビロニア北部)を占領する。
  • 前673年、北方勢力ウラルトゥとの戦争を開始。 *2

詳細は省くが、これらの勢力を結果的には撃退した。この他の要注意勢力として遊牧騎馬民族のスキタイがいたが、王に娘を娶らせることで関係を結んだ。(騎馬民族の歴史については別の機会に書く。)

そして、エジプト遠征。

前673年の冬に最初の遠征が行われたが、撃退されたようだ。そして前671年に2度めの遠征を行ない、戦勝を繰り返し、メンフィス(上エジプトと下エジプトの境界の重要都市)を陥落する。

当時のエジプトは第25王朝(ヌビア王朝)だった。タハルカ王はヌビアに逃げたが取り残された王族はアッシリア軍に捕縛される。

ここでアッシリア軍は下エジプトの諸侯(諸王)を従属させ、上エジプトのテーベの長官(当時の実質的トップ)のメンチュエムハトは軍に降伏した。これにより、全エジプトがアッシリア支配下に入ることになった。

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前671年の新アッシリア帝国。エサルハドンがエジプトへの侵攻に成功した後。

出典:エサルハドン - Wikipedia

しかし、前669年にエサルハドンが陣中で亡くなり、次代アッシュルバニパルは一旦エジプトから兵を引き上げざるを得なかった。この機に乗じたタハルカ王がメンフィスを奪還し、下エジプトの諸侯は反乱を起こした。